安倍さんが予算委の集中審議に出る事に成った事を受けて、そこに到る過程に就いてTVで論客達が議論していた。
種々の世論調査に依り、自身個人の人気に翳りの出て来ているのを察した安倍さんは、出席を飽迄拒む側近達を抑えて自ら進んで出る姿勢を、
ひけらかしたのであろうと言う点に就いては、私等も含めて衆目が一致している様である。
(そもそも人並みに遠慮していたのでは、政治等出来まい。剰え安倍さんは「『アベ』ノミクス」を造語し、
「内閣一丸と成って」と言えば済む所を「『安倍』内閣一丸と成って」と言うタイプである。
尤も人一倍、人前に出たがる気質で在ればこそ首相に成り得たのであろう)
従って興味を惹くのは、その台本の内容や、どの辺りがアドリブであったのかと言うような点である。
野党の要求を歯牙に掛けなかった竹下さんが、その僅か数時間後に前言を翻したのである。
一見その数時間の間に安倍さんの指示を受けて、翻したように見える。
併し惟れば、当初の拒否の明言も、竹下さんの独断に依るものとは思われない。
苟も首相の言動に就いて、全くの野次馬ならぬ近しい部下が、勝手に判断して発表等する筈は無いと考えるのが、寧ろ自然である。
そういう目で見ると、前の発言でも後の発言でも、その時の竹下さんの様子はちょっと妙であった。
そういう目でと言うのは、すべて台本通りと解釈してと言う意味である。
そして妙であったのは、芝居が下手であったからである。
併し「事実は小説よりも奇なり」、台本等無く見掛け通り、竹下さんの二度の発言も安倍さんの意思表示も
すべてアドリブであったと言う事も決して無いとは言えない。
そういう目で見ると、前の発言の際の竹下さんの表情は「独断でこんな事を言い切って良いのだろうか」と言う躊躇いの、
後の発言の際の表情は「矢張り言うんじゃなかった」との後悔の現われたものと解釈し得て、これも納得できるものである。
或いはそもそも、都議選直後のフレンチ(ハレンチではない)反省会辺りで既に台本が出来上がっていた蓋然性もある。
そして竹下さんは、自身も持っていたその台本が、後に修正された事は知らなかったのかも知れない。
そういう目からは竹下さんの二度目の表情には「安倍の奴が、いきなりアドリブを入れて来た御陰で此方の面目は丸潰れじゃないか!」
との不快感が滲んでいた様に見える。
要するに想像は如何様にも膨らんで収拾が付かない。
藤井四段ならどのように読み解く事であろうか等と不図思う。
併し将棋でも囲碁でもチェスでも、盤上のゲームでは、それに精通した者なら誰が見ても、歴然とした決着があり、
勝者の辿った道が正しいものであったと言う事に成ろうが、現実界はその様な客観的妥当性に支配されてはいない。
歴然とした決着が期待できず、従って藤井四段の読みの正否を判断する事も出来ない。
例えば相撲は現実界のゲームであり、行司を惑わす取り組みも多い。「相撲に勝って勝負に負けた」等と言われる取り組みもあって、
客観的妥当性を持った判断を下すのは容易でない。況して政界は複雑怪奇である。
曖昧な決着でも有れば良い方で、有耶無耶に成って何時しか流れてしまう勝負も多かろう。
一方で現実界には試行が無い。本人は遣ってみた心算でも、客観的には行なわれた事にしか成らない。
現実界には竹刀も木刀も無く、真剣があるのみである。慢心して竹刀や木刀を振り回していると痛い目に合う。
種々の世論調査に依り、自身個人の人気に翳りの出て来ているのを察した安倍さんは、出席を飽迄拒む側近達を抑えて自ら進んで出る姿勢を、
ひけらかしたのであろうと言う点に就いては、私等も含めて衆目が一致している様である。
(そもそも人並みに遠慮していたのでは、政治等出来まい。剰え安倍さんは「『アベ』ノミクス」を造語し、
「内閣一丸と成って」と言えば済む所を「『安倍』内閣一丸と成って」と言うタイプである。
尤も人一倍、人前に出たがる気質で在ればこそ首相に成り得たのであろう)
従って興味を惹くのは、その台本の内容や、どの辺りがアドリブであったのかと言うような点である。
野党の要求を歯牙に掛けなかった竹下さんが、その僅か数時間後に前言を翻したのである。
一見その数時間の間に安倍さんの指示を受けて、翻したように見える。
併し惟れば、当初の拒否の明言も、竹下さんの独断に依るものとは思われない。
苟も首相の言動に就いて、全くの野次馬ならぬ近しい部下が、勝手に判断して発表等する筈は無いと考えるのが、寧ろ自然である。
そういう目で見ると、前の発言でも後の発言でも、その時の竹下さんの様子はちょっと妙であった。
そういう目でと言うのは、すべて台本通りと解釈してと言う意味である。
そして妙であったのは、芝居が下手であったからである。
併し「事実は小説よりも奇なり」、台本等無く見掛け通り、竹下さんの二度の発言も安倍さんの意思表示も
すべてアドリブであったと言う事も決して無いとは言えない。
そういう目で見ると、前の発言の際の竹下さんの表情は「独断でこんな事を言い切って良いのだろうか」と言う躊躇いの、
後の発言の際の表情は「矢張り言うんじゃなかった」との後悔の現われたものと解釈し得て、これも納得できるものである。
或いはそもそも、都議選直後のフレンチ(ハレンチではない)反省会辺りで既に台本が出来上がっていた蓋然性もある。
そして竹下さんは、自身も持っていたその台本が、後に修正された事は知らなかったのかも知れない。
そういう目からは竹下さんの二度目の表情には「安倍の奴が、いきなりアドリブを入れて来た御陰で此方の面目は丸潰れじゃないか!」
との不快感が滲んでいた様に見える。
要するに想像は如何様にも膨らんで収拾が付かない。
藤井四段ならどのように読み解く事であろうか等と不図思う。
併し将棋でも囲碁でもチェスでも、盤上のゲームでは、それに精通した者なら誰が見ても、歴然とした決着があり、
勝者の辿った道が正しいものであったと言う事に成ろうが、現実界はその様な客観的妥当性に支配されてはいない。
歴然とした決着が期待できず、従って藤井四段の読みの正否を判断する事も出来ない。
例えば相撲は現実界のゲームであり、行司を惑わす取り組みも多い。「相撲に勝って勝負に負けた」等と言われる取り組みもあって、
客観的妥当性を持った判断を下すのは容易でない。況して政界は複雑怪奇である。
曖昧な決着でも有れば良い方で、有耶無耶に成って何時しか流れてしまう勝負も多かろう。
一方で現実界には試行が無い。本人は遣ってみた心算でも、客観的には行なわれた事にしか成らない。
現実界には竹刀も木刀も無く、真剣があるのみである。慢心して竹刀や木刀を振り回していると痛い目に合う。