独白

全くの独白

手話漫才とアウフヘーベン

2017-11-04 15:17:17 | 日記
TVを見ていると、手話を使った漫才師が紹介されていた。二人のうちの一人は、いわゆる健常者である。
客も両様で、立派に受けている。客の中の(健常である女性の)手話通訳士も紹介されていた。
彼女曰く「聾啞者との手話は、どうしても満足できるようなものに成らない。この漫才は、そんな悩みを忘れさせてくれる」と。
傍目にも確かに、手話というものの働きは拙劣に映る。勿論それは不可避であり、当然そこに齟齬や擦れ違いの頻出する事も又、不可避である。
落語や漫才の笑いの多くは、殊に齟齬や擦れ違いを基にしている。
詰まり、健常者と聾啞者との遣り取りは、笑いのネタの宝庫である。
而して、この二人の漫才師はそれを利用し、客は素直に笑って居る。
小池さんの云うアウフヘーベンがここにもあり、高座でも客席でも、受け容れられて居る訳である。
「アウフヘーベン」と云っても、「止揚」とか「揚棄」とか訳するから、難解そうになる。「正→反→合」の「合」である。
手話は多分、聾唖者同士に取っても、かなりもどかしい道具であろう。況して片方が健常であれば、それによる意思の疎通の困難さは、両者の皮膚感覚が違うからには当然の事として、弥増す筈である。それが先の手話通訳士の感じる、越えられない壁の礎となっている。
而して受け容れざるを得ないその現実を、苦悩の末に、妥協して受け容れた上での工夫の成果が笑いなのである。
単純化すれば、手話が「正」、その非力さが「反」、笑いが「合」と言う訳である。
別の言い方をすれば、手話は言語としての不完全さの為に、対話する者同士の間に、共通の認識を生み出せない。併しその「生み出せない」と言う共通の認識は、生み出され得ている。生み出した、手話より又通常の言語より高次の言語としての何ものかが詰まり、異なった皮膚感覚等というものを超越して存在する、より人間に取って本然的であり、万人の共有する、祈念や聖霊などの源でもある、精神の働きと言う事にでも為ろうか。而してその働きは多分又、笑いの源でもある。
感情の解放の一種である、手放しで泣いたり笑ったりする事で、(漫才を高座に上らせる前の)かの二人の漫才師自身も、手話通訳士も他の客も、精神を浄化されている訳である。そして傍からそれを見ている私等も、何か清らかなものを感じさせられている。
皮膚感覚の違いや、そこから生じるその持ち主相互の、相手への差別感や、道具としての手話や通常の言語の不完全さを超越した上に、万人に認識の共有を齎し得るような精神の働きは、当然の事乍らそれら凡てより有力で、より内面的で精神の中核に近く、詰まりは人間固有のものである性質の強いものでなければならない。「霊性」とでも名付けるのが相応しかろう。