予報では好天気は今日迄であり、サイクリングに行って来た。土日祝日は好天気でも出ない事にして居る。どこにも大勢の人が出て居て、どうしても互いに干渉する事に成ってしまうので、土日祝しか休めない人に譲るような心持からである。
ところがタイミングに依っては、平日でも十分干渉し合う事に成るものである。今日も厭な予感はあった。
家を出るとすぐ、予感の当たった事に気付かせられた。遠足の列と擦違ったのである。2,3分走ると保育所がある。そこでも遠足の準備をしているのが見える、嗚呼。その後も幾つもの集団を見る。河川敷に出ると対岸では、同じ学校も違う学校も入り混じって、引きも切らずというありさま。
併し偶ま此岸では、どこもまだミーティング中である。もう少しでこちらも彼岸のようになると思えば、勢い足に力が入る。その甲斐あって何とか連中の歩き出す前に、連中の殆ど見えないロケーションの下に到達した。然程悪い日でも無さそうな気がして来た。
この時季、就中この連休の谷間と云うのは、例年遠足ラッシュに遭遇するのである。時候的好条件の他に、教師達自身が連休モードに入ってしまって居る為に、子供達の胸中をも同様のものと忖度して遣って、両者の座学の免除を図る結果であるのかも知れない。遠足は勝手にすれば良いが、傍若無人の歩き方をも勝手にしてくれるから困るのである。
暫く走り、遠足のメッカが近くなると、又一団が見えて来た。此処迄来ると通る車は少ないので、教師の引率で左側を歩いて居るのは気に入らないが、真ん中に寄って避けるに不都合は無い。
この一団は小学生であったが、メッカの入り口辺りで今度は、中坊が向こうから遣って来る。この連中も何故か左側通行をしている、無論教師付きである。入り口は反対側であり、私の前方で、ワラワラと道を渡っている。
中坊と云うのは生意気盛りであり、素直に何かに感嘆する事等は、滅多にしか無い。
自分の中坊の砌を思い出してみても、人を腐したり貶したりする事こそあっても、褒めたり讃えたりした記憶はまず無い。
人の口に戸は立てられぬ、悪口も聞こえなければ良しとするしかないが、聞こえて来れば愉快では居られない、折角持ち直しつつある心持が、又凋んでしまう、聞こえて来ないように祈りつつ坂を下って居たその時、「速ッ」という声がした。確かに急坂であり速度は出ていた。密かに北叟笑み乍ら少し行くと、又違った声で「かっけー!」と云うのが聞こえる。
飛び出て来る者が前方に居ると不味いので振り向く訳には行かないが、手位は挙げて讃辞への謝意を表したかったが、何せ以前に下り坂で片手を離して、俊敏な私の事とて無傷で済みはしたものの、死んで居てもおかしくは無い事態に陥った事があり、心を鬼にして脇目もふらず、両手でバーを握った儘通り過ぎたのである。
然もその二つの声の、中坊とは雖も女子の物であった事は、軽薄この上ない私を有頂天にするに不足は無かった。
其の上今日は、未だ雪が有って行けまいと思っていた所迄行く事が出来て、「捨てる神あれば拾う神あり」「終わり良ければ総て良し」の上々の一日であった。
我乍ら些細な事で喜んで、馬鹿げた男よとは思うが、幸せな生活とは、斯かる些細な慶事の集積以外の何物で在り得ようかという思いも又ある。
ところがタイミングに依っては、平日でも十分干渉し合う事に成るものである。今日も厭な予感はあった。
家を出るとすぐ、予感の当たった事に気付かせられた。遠足の列と擦違ったのである。2,3分走ると保育所がある。そこでも遠足の準備をしているのが見える、嗚呼。その後も幾つもの集団を見る。河川敷に出ると対岸では、同じ学校も違う学校も入り混じって、引きも切らずというありさま。
併し偶ま此岸では、どこもまだミーティング中である。もう少しでこちらも彼岸のようになると思えば、勢い足に力が入る。その甲斐あって何とか連中の歩き出す前に、連中の殆ど見えないロケーションの下に到達した。然程悪い日でも無さそうな気がして来た。
この時季、就中この連休の谷間と云うのは、例年遠足ラッシュに遭遇するのである。時候的好条件の他に、教師達自身が連休モードに入ってしまって居る為に、子供達の胸中をも同様のものと忖度して遣って、両者の座学の免除を図る結果であるのかも知れない。遠足は勝手にすれば良いが、傍若無人の歩き方をも勝手にしてくれるから困るのである。
暫く走り、遠足のメッカが近くなると、又一団が見えて来た。此処迄来ると通る車は少ないので、教師の引率で左側を歩いて居るのは気に入らないが、真ん中に寄って避けるに不都合は無い。
この一団は小学生であったが、メッカの入り口辺りで今度は、中坊が向こうから遣って来る。この連中も何故か左側通行をしている、無論教師付きである。入り口は反対側であり、私の前方で、ワラワラと道を渡っている。
中坊と云うのは生意気盛りであり、素直に何かに感嘆する事等は、滅多にしか無い。
自分の中坊の砌を思い出してみても、人を腐したり貶したりする事こそあっても、褒めたり讃えたりした記憶はまず無い。
人の口に戸は立てられぬ、悪口も聞こえなければ良しとするしかないが、聞こえて来れば愉快では居られない、折角持ち直しつつある心持が、又凋んでしまう、聞こえて来ないように祈りつつ坂を下って居たその時、「速ッ」という声がした。確かに急坂であり速度は出ていた。密かに北叟笑み乍ら少し行くと、又違った声で「かっけー!」と云うのが聞こえる。
飛び出て来る者が前方に居ると不味いので振り向く訳には行かないが、手位は挙げて讃辞への謝意を表したかったが、何せ以前に下り坂で片手を離して、俊敏な私の事とて無傷で済みはしたものの、死んで居てもおかしくは無い事態に陥った事があり、心を鬼にして脇目もふらず、両手でバーを握った儘通り過ぎたのである。
然もその二つの声の、中坊とは雖も女子の物であった事は、軽薄この上ない私を有頂天にするに不足は無かった。
其の上今日は、未だ雪が有って行けまいと思っていた所迄行く事が出来て、「捨てる神あれば拾う神あり」「終わり良ければ総て良し」の上々の一日であった。
我乍ら些細な事で喜んで、馬鹿げた男よとは思うが、幸せな生活とは、斯かる些細な慶事の集積以外の何物で在り得ようかという思いも又ある。