794年(延暦13年)、山城国の平安京に遷都します。
時の天皇は第50代桓武天皇。
大和の平城京から、山城国長岡京に遷都しましたが、
様々な変事が起こり、長岡京遷都からわずか10年で、平安京に遷都しました。
806年(延暦25年)、桓武天皇が崩御すると、
第1皇子・安殿親王(あてのみこ)が同日、践祚(せんそ)し、即位。
これ以降、天皇が崩御すると、まず践祚(=位を受け継ぎ)し、
その後、内外に位に就いたことを知らせる即位式を行うようになり、現在まで続いています。
第51代平城天皇(へいぜいてんのう)の誕生です。
母は皇后・藤原乙牟漏。藤原式家の出身です。
病弱でしたが、即位後は政治に意欲的に取り組んでいました。
しかし大同4年(809年)、天皇は発病。
病の原因は諸説ありますが、早良親王の祟り、
そして異母弟・伊予親王が無実の罪で捕らえられ、自殺したこと(伊予親王の変)を気に病んでいたようです。
在位わずか3年で弟・神野親王(第52代嵯峨天皇)に譲位し、太上天皇となり、
旧都・平城京に移り住みます。
その翌年、元気になった平城上皇は、愛妾・藤原薬子とその兄・仲成の介入で、
復位を狙い、平城京遷都の詔を出します。
藤原薬子は平城上皇が親王の時代、薬子の娘が親王の宮に仕える際、同行し、
そのまま親王の愛妾になった人物です。
時の天皇、桓武天皇の怒りを買い、後宮から追放されましたが、
親王は天皇に即位すると、すぐ呼び戻します。
妹が天皇の愛妾になったことで、権勢をふるい出したのが、兄・仲成です。
嵯峨天皇は直ちに薬子の官位を剥奪。
これを受け、平城上皇は挙兵し、薬子と共に東国に入ろうとしましたが、
坂上田村麻呂らに行く手を遮られ、翌日平城京に戻され直ちに剃髮、仏門に入り、
薬子は服毒自殺、仲成は処刑されました
嵯峨天皇の皇太子に立てられていた上皇の第3皇子・高岳親王は皇太子を廃され、
平城・嵯峨天皇の異母弟・大伴親王(後の第53代淳和天皇)が立てられました。
これを「薬子の変」といいます。
次は・・・「空海・最澄」
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