南北朝の幕開け-後嵯峨天皇陵・亀山天皇陵-

2013-10-30 21:00:37 | 歴史あるトコ-京都

鎌倉時代、承久3年(1221年)に、

後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げてます。

承久の乱です。

 

敗れた朝廷側の後鳥羽上皇は隠岐島に、

順徳上皇は佐渡島に、

直接関係しなかった土御門上皇は、自ら望んで土佐国(後に阿波国)へ配流されました。

即位していた順徳上皇の皇子・仲恭天皇はわずか78日で廃位させられ、

後鳥羽上皇につながる血統を排除し、

安徳天皇の弟の子である後堀河天皇、その子・四条天皇へと皇統が移りました。


しかし、四条天皇がわずか12歳で崩御すると、

皇位継承問題が勃発。

 

幕府の北条氏は、承久の乱の関係者である順徳天皇の子・忠成王の擁立を反対。

中立の立場であった土御門天皇の子・邦仁王を擁立します。

第88代 後嵯峨天皇です。


後嵯峨天皇は西園寺家と婚姻関係を結び、安定を図ります。

わずか2歳の久仁親王(第89代 後深草天皇)に譲位し、院政を開始します。

 

しかし後深草天皇が17歳の時、同母弟・恒仁親王(第90代 亀山天皇)への譲位を要請します。

 

その後、後嵯峨上皇が、後深草上皇の皇子ではなく、

亀山天皇の皇子である世仁親王(後の後宇多天皇)を皇太子に立て、

亀山天皇の子孫に皇統を繋ぐよう遺言を残し、1272年に崩御すします。

 

それを不満に思った後深草上皇は幕府に訴え、兄弟の対立が起こります。

幕府は、お互いの子孫を交互に継承させ、院政を行うよう裁定を下します。

 

持明院統(後深草天皇の血統)大覚寺統(亀山天皇の血統)

南北朝時代の幕開けとなります。




その後嵯峨天皇亀山天皇は、

京都市の嵐山にある天竜寺境内の陵墓があります。

父子並んで、堂があります。

 

後嵯峨天皇と大宮院・藤原(西園寺)姞子による寵愛が、

後の南北朝の対立に発展していった・・・・ってことですね。

 

(ちなみに後深草天皇陵はこちらから

 

 

一度、行ってみて

京都府右京区嵯峨天龍寺  後嵯峨天皇・亀山天皇陵



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