鎌倉時代、承久3年(1221年)に、
後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げてます。
承久の乱です。
敗れた朝廷側の後鳥羽上皇は隠岐島に、
順徳上皇は佐渡島に、
直接関係しなかった土御門上皇は、自ら望んで土佐国(後に阿波国)へ配流されました。
即位していた順徳上皇の皇子・仲恭天皇はわずか78日で廃位させられ、
後鳥羽上皇につながる血統を排除し、
安徳天皇の弟の子である後堀河天皇、その子・四条天皇へと皇統が移りました。
しかし、四条天皇がわずか12歳で崩御すると、
皇位継承問題が勃発。
幕府の北条氏は、承久の乱の関係者である順徳天皇の子・忠成王の擁立を反対。
中立の立場であった土御門天皇の子・邦仁王を擁立します。
第88代 後嵯峨天皇です。
後嵯峨天皇は西園寺家と婚姻関係を結び、安定を図ります。
わずか2歳の久仁親王(第89代 後深草天皇)に譲位し、院政を開始します。
しかし後深草天皇が17歳の時、同母弟・恒仁親王(第90代 亀山天皇)への譲位を要請します。
その後、後嵯峨上皇が、後深草上皇の皇子ではなく、
亀山天皇の皇子である世仁親王(後の後宇多天皇)を皇太子に立て、
亀山天皇の子孫に皇統を繋ぐよう遺言を残し、1272年に崩御すします。
それを不満に思った後深草上皇は幕府に訴え、兄弟の対立が起こります。
幕府は、お互いの子孫を交互に継承させ、院政を行うよう裁定を下します。
持明院統(後深草天皇の血統)と大覚寺統(亀山天皇の血統)の
南北朝時代の幕開けとなります。
その後嵯峨天皇と亀山天皇は、
京都市の嵐山にある天竜寺境内の陵墓があります。
父子並んで、堂があります。
後嵯峨天皇と大宮院・藤原(西園寺)姞子による寵愛が、
後の南北朝の対立に発展していった・・・・ってことですね。
(ちなみに後深草天皇陵はこちらから)
一度、行ってみて
京都府右京区嵯峨天龍寺 後嵯峨天皇・亀山天皇陵