876年、父帝から当然譲位されたわずか9歳の新帝
第57代 陽成天皇
第56代 清和天皇を父に、
時の権力者 藤原基経の実妹・藤原高子を母にもつ貞明親王です。
即位後は、父上皇、母后、伯父・摂政藤原基経が政務を見ていましたが、
879年、父上皇が出家。
畿内巡礼の旅に出かけ、翌年崩御。
それから基経との関係が悪化します。
正確には 「摂政」である兄・基経と、
「国母」である妹・高子の間の権力争いに巻き込まれた・・・というのが有力説です。
実妹・高子にはすでに3人の皇子女がいたにも関わらず、
基経は娘を清和天皇のもとに入内させていたのです。
自分と皇子が蔑ろにされた
・・・そう思ったのでしょうか。
陽成天皇が元服の際、基経は娘・温子の入内を望みますが、
高子によって拒まれます。
天皇が禁中で馬を乗り回したり、小動物を殺生するなどの乱行があり、
883年、基経は摂政の辞任を願い出ますが、許されず、
出仕を拒否してしまいます。
そんな中、宮中で天皇に近侍していた乳母の子・源益が何者かによって殴殺。
これを機に、基経は天皇に退位を迫ります。
わずか数17歳(満15歳)の少年帝は、
現在の二条城北側にあった離宮・冷然院で、949年82歳(満80歳)で崩御。
京都市左京区にある神楽岡東陵に葬られます。
摂政藤原基経にとって、「天皇」は傀儡で十分でしたが、
清和天皇の遺勅は「親政が行えるまでの摂政」だったこと。
元服の折、次代の外戚をなるための娘の入内を拒まれた基経にとって、
陽成天皇と皇太后高子は、まさに「目の上の瘤」だったのでしょう。
陽成天皇の伝わる乱行は、事実か、はたまた虚偽か・・・
真実は歴史の闇の中にあります。
一度、行ってみて
京都市左京区 神楽岡東陵