飛鳥時代は592年から710年まで、ほぼ7世紀の時代を指します。
大和・飛鳥の地に政治の中心が置かれていたことから、飛鳥時代と呼ばれます。。
592年、崇峻天皇が蘇我馬子の手の者に暗殺されました。
犯人は東漢駒(やまとのあやのこま)。
その後、崇峻天皇の嬪(側室)であった馬子の娘・河上娘との密通が露見し、
馬子によって処刑されます。
これは馬子が口封じをしたのではないかと、いわれています。
さて空位となった天皇位に誰を就けるか・・・・。
敏達天皇と炊屋姫の皇子・竹田皇子や、
敏達天皇と先の皇后との皇子・押坂彦人大兄皇子、
用明天皇の皇子で、馬子の娘婿でもある厩戸皇子などが有力でしたが、
当時30歳以上で即位する事が多く、彼らは若すぎでした。
そのため、中継ぎとして即位したのが炊屋姫、別名額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。
第33代推古天皇、史上初の女帝です!
実子・竹田皇子への中継ぎを望んでいたといわれますが、
竹田皇子は推古天皇即位後、まもなく亡くなります。
その後、甥にあたる厩戸皇子が皇太子につき、摂政として政務を手伝います。
603年、有力な豪族の家に生まれたら、バカでも高い地位につけるという制度から、
実力のある人材を登用する「冠位十二階」の制度が制定されます。
また605年には、日本で初めての憲法、「十七条憲法」を制定し、法令・組織の整備を進めます。
607年、小野妹子を中国の王朝・隋に派遣。
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」
属国ではなく、対等な国の外交を行いましょう、と伝えたのです。
その後、隋に向け、隋が滅亡するまで計4回の遣隋使(学生や僧など)が派遣され、
大陸の文化、学問、政治体制を学ばせました。
622年、厩戸皇子が、626年には蘇我馬子が相次いで亡くなり、
628年には推古天皇も崩御。
厩戸皇子が亡くなったことで、蘇我氏の勢いを止める者がいなくなり、
蘇我蝦夷(馬子の子)が推す押坂彦人大兄皇子の遺児・田村皇子が即位します。
第34代舒明天皇です。
632年、第1回の遣唐使が派遣され、唐の文化や学問、仏教が日本に広まります。
641年、舒明天皇が崩御すると、皇后であった宝皇女が即位。
第35代皇極天皇、女帝です。
皇極天皇の父は舒明天皇の弟・茅渟王(ちぬおう)、
母は欽明天皇の孫・吉備姫王です。
643年、蘇我蝦夷は朝廷の許しも得ず、子である入鹿にその地位を譲り、
さらに蘇我の血を引く舒明天皇の皇子・古人大兄皇子(母は馬子の娘)を、
次期天皇に擁立するため、厩戸皇子の子である山背大兄王を攻め、
王の一族は斑鳩寺で自害します。上宮王家(聖徳太子の一族)は滅亡します。
蘇我氏の専横な振る舞いに立ち上がったのが、
舒明天皇と皇極天皇の皇子・中大兄皇子と、中臣鎌足でした。
645年、三韓からの使者をもてなす儀式の場で、入鹿を斬り殺します。
皇族を軽んじ、意のままに皇族を操ろうとした蘇我宗本家は、
蝦夷の自害で滅亡します。
これを「乙巳の変(いっしのへん)」といい、
この後、中大兄皇子による政治改革がスタートします。
これを「大化の改新」といいます。
次回・・・・・「大化の改新」
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