ちょっと歴史入門<7>乙巳の変

2013-03-26 12:22:50 | ちょっと歴史入門

飛鳥時代は592年から710年まで、ほぼ7世紀の時代を指します。

大和・飛鳥の地に政治の中心が置かれていたことから、飛鳥時代と呼ばれます。。

 

 

592年、崇峻天皇が蘇我馬子の手の者に暗殺されました。

犯人は東漢駒(やまとのあやのこま)。

その後、崇峻天皇の嬪(側室)であった馬子の娘・河上娘との密通が露見し、

馬子によって処刑されます。

これは馬子が口封じをしたのではないかと、いわれています。


さて空位となった天皇位に誰を就けるか・・・・。

敏達天皇と炊屋姫の皇子・竹田皇子や、

敏達天皇と先の皇后との皇子・押坂彦人大兄皇子

用明天皇の皇子で、馬子の娘婿でもある厩戸皇子などが有力でしたが、

当時30歳以上で即位する事が多く、彼らは若すぎでした。

そのため、中継ぎとして即位したのが炊屋姫、別名額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。

第33代推古天皇、史上初の女帝です!

実子・竹田皇子への中継ぎを望んでいたといわれますが、

竹田皇子は推古天皇即位後、まもなく亡くなります。

 

その後、甥にあたる厩戸皇子が皇太子につき、摂政として政務を手伝います。

603年、有力な豪族の家に生まれたら、バカでも高い地位につけるという制度から、

実力のある人材を登用する「冠位十二階」の制度が制定されます。

 

また605年には、日本で初めての憲法、「十七条憲法」を制定し、法令・組織の整備を進めます。

607年、小野妹子を中国の王朝・隋に派遣。

「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」

属国ではなく、対等な国の外交を行いましょう、と伝えたのです。

その後、隋に向け、隋が滅亡するまで計4回の遣隋使(学生や僧など)が派遣され、

大陸の文化、学問、政治体制を学ばせました。

 

622年、厩戸皇子が、626年には蘇我馬子が相次いで亡くなり、

628年には推古天皇も崩御。


厩戸皇子が亡くなったことで、蘇我氏の勢いを止める者がいなくなり

蘇我蝦夷(馬子の子)が推す押坂彦人大兄皇子の遺児・田村皇子が即位します。

第34代舒明天皇です。

 

632年、第1回の遣唐使が派遣され、唐の文化や学問、仏教が日本に広まります。

641年、舒明天皇が崩御すると、皇后であった宝皇女が即位。

第35代皇極天皇、女帝です。


皇極天皇の父は舒明天皇の弟・茅渟王(ちぬおう)、

母は欽明天皇の孫・吉備姫王です。


 

643年、蘇我蝦夷は朝廷の許しも得ず、子である入鹿にその地位を譲り、

さらに蘇我の血を引く舒明天皇の皇子・古人大兄皇子(母は馬子の娘)を、

次期天皇に擁立するため、厩戸皇子の子である山背大兄王を攻め、

王の一族は斑鳩寺で自害します。上宮王家(聖徳太子の一族)は滅亡します。



蘇我氏の専横な振る舞いに立ち上がったのが、

舒明天皇と皇極天皇の皇子・中大兄皇子と、中臣鎌足でした。

645年、三韓からの使者をもてなす儀式の場で、入鹿を斬り殺します。

皇族を軽んじ、意のままに皇族を操ろうとした蘇我宗本家は、

蝦夷の自害で滅亡します。

これを「乙巳の変(いっしのへん)」といい、

この後、中大兄皇子による政治改革がスタートします。

これを「大化の改新」といいます。

 

 

 

 

次回・・・・・「大化の改新」

 

 

 

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ちょっと歴史入門<6>豪族の台頭

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