道可道、非常道。名可名、非常名。
無名天地之始、有名萬物之母。
故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。
此兩者同出而異名。
同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。
以下 http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/index.htmlより引用
[書き下し文]
1.道(みち)の道う(いう)可き(べき)は、常の道に非ず。
名の名づく可きは、常の名に非ず。
名無きは天地の始めにして、名有るは、万物の母なり。
故(ゆえ)に常に欲無きもの、以て(もって)その妙を観(み)、
常に欲有るもの、以てその徼(きょう)を観る。
此の両つの者は、同じきより出でたるも而も名を異にする。
同じきものは之(これ)を玄(げん)と謂う、
玄の又玄、衆妙(しゅうみょう)の門なり。
[口語訳]
『道(世界の根本原理)』を言葉で言うことができるならば、
それは不変の道ではない。
『名』が名づけられるものであれば、それは不変の名ではない。
名の無い『無名』は天地の始まりであり、
名の有る『有名』は万物を生み出した母である。
その為、『永遠の欲望の無い者が、
世界の妙(素晴らしい本質)を見ることができ、
いつも欲望に振り回されている者は、
世界の徼(取るに足りない末端)しか見ることができないのだ』。
この二つ(無名と有名)は同じものから出てくるが、
名前が異なっている。
この同じものを『玄(神秘的な原理・法則)』といい、
玄の中でも最も玄なもの、
それが衆妙の門(「全ての妙」を生み出す門)である。
*****************************
名前や地位等に関係なく、無欲の心で物事や人を見てみよう!
陰陽の二つから万物が生まれる。陰陽の二つは一つから生まれた。
名前や地位は人が後から付けたもので、必ずしも正当ではない。
本質には名などないのだ。
無名天地之始、有名萬物之母。
故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。
此兩者同出而異名。
同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。
以下 http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/index.htmlより引用
[書き下し文]
1.道(みち)の道う(いう)可き(べき)は、常の道に非ず。
名の名づく可きは、常の名に非ず。
名無きは天地の始めにして、名有るは、万物の母なり。
故(ゆえ)に常に欲無きもの、以て(もって)その妙を観(み)、
常に欲有るもの、以てその徼(きょう)を観る。
此の両つの者は、同じきより出でたるも而も名を異にする。
同じきものは之(これ)を玄(げん)と謂う、
玄の又玄、衆妙(しゅうみょう)の門なり。
[口語訳]
『道(世界の根本原理)』を言葉で言うことができるならば、
それは不変の道ではない。
『名』が名づけられるものであれば、それは不変の名ではない。
名の無い『無名』は天地の始まりであり、
名の有る『有名』は万物を生み出した母である。
その為、『永遠の欲望の無い者が、
世界の妙(素晴らしい本質)を見ることができ、
いつも欲望に振り回されている者は、
世界の徼(取るに足りない末端)しか見ることができないのだ』。
この二つ(無名と有名)は同じものから出てくるが、
名前が異なっている。
この同じものを『玄(神秘的な原理・法則)』といい、
玄の中でも最も玄なもの、
それが衆妙の門(「全ての妙」を生み出す門)である。
*****************************
名前や地位等に関係なく、無欲の心で物事や人を見てみよう!
陰陽の二つから万物が生まれる。陰陽の二つは一つから生まれた。
名前や地位は人が後から付けたもので、必ずしも正当ではない。
本質には名などないのだ。