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マルコ13章を読んでいて、すぐに「わかった」と思った。つまりは、「滅びることのないみことばに聴いているなら、それが目を覚ましていることであって備えは出来ている」と・・。
携挙がいつとか、再臨がいつとか、いつ召されるのか・・それはもうすでに約束されていることで格別なことではない。一度はそんなふうに読んだ。しかし
「その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。」
「だから、気をつけていなさい。わたしは、何もかも前もって話しました。」
「気をつけていなさい」と三度、
「目を覚ましていなさい」と三度、
それは「すべての人に言っているのです。」とあった。
繰り返し読むうちに、ひと言で済ませることなど出来ない事の重大さに・・今は話す言葉もなくなった。13章は、この地に再び主の訪れの日まで聞き続けることであった。
ペンテコステの後、お弟子たちは日々この日のために備えて生きた。みことばに対するその態度が「敬虔」なのだと気づいた。
「話すのはあなたがたではなく、聖霊です。」
「主よ.。お話しください。しもべは聞いております。」
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分かりにくいブログに、今年も最後までお付き合いくださいまして深く感謝致します。
祝福をイエスさまにお祈りしています。