
聖書の良いメッセージを聴くと、新しくみことばにであうことができる。何度も開いた箇所であってもその度に新しい発見がある。このことこそ、普通の本との決定的な違いである。
ブログを書くようになって、聴いたことをわかった様な気持ちで終わるのではなく、自分の言葉に消化する習慣が付いたように思う。時間をかけて思い巡らせ反芻し、時には調べるようにもなった。
そのことは私にとってとても良かったと思う。ただでさえ、年とともにポロポロと記憶が抜け落ちてゆくようになったから・・このことは感謝なこと。
ルカ4章から
御父の祝福、そうして聖霊に満たされたイエスさま。もう、何でも出来るパワーに溢れている様子が浮かぶ。しかし・・
「さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。」(ルカ4:1~2)
働きのためにイエスさまは断食をされている。「腹が減っては戦は出来ぬ」なんて言葉があるけれど、人となられたイエスさまの肉体的な状態は、40日間の断食で完全に無力であったろう・・。
イエスさまに満ちていたのは聖霊の力。このことが試みの時にどれほど大切なのか教えてくださっている。肉のがんばりが脱力しなければ御声を聞き取ることは出来ない。イエスさまでもそうだったんだ!
悪魔は、空腹のイエスさまの弱みにつけ込もうとした。石をパンにせよと誘惑をする。イエスさまのおことば、
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」此処はルカよりもマタイの言葉のほうが良い。後のことばが大切なのだから・・。
以前ノンクリスチャンの友人に「人はパンだけで生きるのではない。」と伝えた所、すかさず「そうよ。肉を食べることも必要だよ」なんて返されたことがあった。私はすっかり後のことばを伝える気力を失ってしまったから・・。アハハ・・
「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。
ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」(ルカ4:6~7)
悪魔は嘘つき、偽り者である。支配することを任されているのは、神の許しの範囲内である。(ヨブ記)
そもそも彼が約束を守るわけがない。でも、イエスさまは知っておられたと思うけれど、直接悪魔に勝とうとはされなかった。「うそつき!」なんて水掛け論に持ち込むことはされなかった。
イエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。』と書いてある。」(ルカ4:8)
イエスさまは一貫して、父の約束であるみことばを伝えられた。人となられたイエスさまはすべての勝利はみことばにあることを教えてくださっている。
世のもろもろの戦いの中で、キリスト者の勝利とは単純に問題をみことばにつなげることである。たとえこの世で願いどおりなったとしても、そうでなかったとしても、それは今、目に見える結果に過ぎない。神様は良い方である。良い計画がなることには何もかわらないのだから・・。
この世での敵はいろいろあって、一々それに応える必要なんかないのだと・・。拍手をもらおうと頑張る必要もないのだと・・。
聖霊の導きによってみことばを語ったなら、そこで安息するだけである。みことばの約束の主が戦ってくださるのだから・・。
悪魔はイエスさまに「石をパンにせよ」と言った。これはイエスさまには出来ることである。彼は出来ないことは言わない。私たちを誘惑するときも、少し頑張れば出来ることを言う。これが彼の仕掛ける罠だと思う。
このとき私たちの力は邪魔である。私たちが神様を手伝うことは出来ず、どうせ見当違いになる協力も要らない。静かに主に信頼してみことばを待っていることがすべてだと思う・・。
イエスさまでさえもそうされたのだから・・。悪魔の試みの中でイエスさまは私たちに世の生き方を教えてくださった。
『あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。』(Ⅱ歴代20:15)