イエスはオリーブ山に行かれた。
そして朝早く、イエスは再び宮に入られた。人々はみな、みもとに寄って来た。イエスは腰を下ろして、彼らに教え始められた。
すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、(1~3)
人々がみことばに耳を傾けているイエスの教えの中に、割り込んで来たのは姦淫を犯した女を引き連れた一団であった。
彼らは女の救いを求めて来たのではなく、神の義を求めて来たのでもなかった。
イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。
モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」(4~5)
得意満面の彼らの顔が浮かんでくる。彼らには女はイエスを追い込むための材料であった。愛を説くイエスには律法によって殺すことは命じられず、律法を犯して罪を許すことも出来ないからである。
彼らに働くのは神の義ではなくサタンである。サタンが罪を訴えるときは、訴える者も訴えられている者をも滅ぼすためである。
しかしイエスが罪を責める時は、救いのための十字架の血潮を備えていてくださる。キリスト者はみなこのことを身をもって経験した者である。
彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。(6)
イエスは彼らが静まって、自分自身の罪を思い返す時を用意された。
しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」
そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。(7~8)
人を訴えるときは誰でも自分は正しいと思っている。しかし自分の正しさによって救われた者はいない。みことばによって、聖霊の臨在によって神が何を喜ばれ、何を嫌われるお方であるか知らなければならない。
彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。(9)
去って行ったのは女を連れて来た人々であろう。此処で最も重要なことは、彼らが我に返って自分の罪に気付いたことであり、これは姦淫の女ではなく彼らの話である。
みことばを聴いて我に返ることが出来るのは、彼らが神の選びの民であったからである。
しかし、彼らは自分の罪に気付いてイエスを去ったことで、罪を贖って下さる方を失った。
すべて罪を洗いきよめる主に留まることは、罪の大小に拠らず救いの根幹に関わることであり、自他を訴え続ける悪しき者から身を守る術である。
イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」
彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」(10~11)
女は、唯一正しく裁く権威を持っておられる主に留まっていた。罪のさばきを受けるためである。捕らえていた人々が去った後も、御許に命を差し出してイエスのさばきを待っていたのである。
唯一裁く権威を持っておられる主が女の罪を赦されたのは、十字架でその罪をあがなわれるからである。彼女の罪の報酬は死であり、赦しにはイエスの命が支払われた。救いの恵みに与った者はキリストのいのちをたまわったのである。
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:23)
高価な代価を支払われた赦しをたまわった者は、罪を恐れることを身をもって知る。神の御子の命が差し出されるほどのことと知った恐れである。
イエスの「これからは、決して罪を犯してはなりません。」とは、これからの生き方を女に教えて、生きることを許された言葉であった。
キリスト者はキリストによって過去、現在、未来の罪をあがなわれ、神の子とされた者である。此処にキリストを信じるすべての人の平安がある。
神の聖さを持つ者は居ないが、共にイエス・キリストの御名をほめたたえ御救いに歓喜している。
此処に神の子らを訴え続けるサタンは敗北するのである。