
携挙は、ある日生きているキリスト者が天にあげられること。一体どうやって・・それはわからないが、生きていれば経験するだろう・・。経験したいなぁ・・。
また、イエスさまが雲に乗って来られる再臨も、私はそっくりそのまま信じている。今日までの小さな奇跡を寄せ集めると、みことばのすべてをすんなりと信じる者になった。
さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。
『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:20~21)
その日を待ち望み「何時ですか」と知りたがるが、信じる者には父なる神さまも、御子イエスさまも、聖霊も私たちのうちに居てくださるいことを、世で生きている今経験している。
神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。(Ⅰヨハネ3:24)
だから、主の日が今日であっても数年後であっても、主に在る平安は同じであり、主と在るということに変わりはないとも思っている。
携挙や再臨の日時が知らされていないのは、今日落ち着いて自分の役割を果たすためである。
世で人々と共に生き、イエスさまに信頼してこの身を世に曝し、みことばを成就してくださる方を証するためである。それは地には始めがあり、終わりがあるからである。
イエスは弟子たちに言われた。「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。(ルカ17:22)
携挙の日が来てしまっては、ひとりで主に選ばれ、信仰によって主を選んだことによって、上げられて行くのであり、愛する者を抱いてゆく事はできない。だからこそ今は、その事実を伝えるための貴重な時間なのだ。
およそ奇想天外と思えるみことばを、そっくり丸ごと信じることが出来るのは、主にお出会いした日からの、大きな奇跡小さな奇跡の中で、生きて働く主の御力を見た事に拠るのである。
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」(Ⅰコリント2:9)