主はモーセにこう告げられた。
「アロンとその子らに告げよ。イスラエルの子らの聖なるものは慎重に扱え。わたしの聖なる名を汚してはならない。それは彼らがわたしのために聖別したものである。わたしは主である。(1~2)
生まれながらに見たことも聞いたことも、経験したことも無い神の聖さを、人が一体どのようにして、わきませえることが出来るだろう。創造主なる神の聖さに恐れを覚えるのは、キリストに出会ってからである。
神は、ご自身の聖さを曲げることなく愛を成就するために、キリストを十字架で罪の身代わりとして、罪の報酬である死を支払わせ、その事実を信じるだけで、価なく神に受け入れられる救いを完成してくださった。
神の聖さと御愛を知ることが出来たのは、聖霊に触れられ、キリストの平安を頂いて神の憐みを経験し、みことばの知識によりキリストを通して、神の愛が流れて来た時である。
あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」(ヨハネ14:7)
人は善悪の木の実を食べて以来、それぞれの基準を作り出し、善や悪に妥協することによって共存し生きている。善の根拠は曖昧で力ある者、あるいは数によって支配されるものである。
それゆえ、神はご自身を知らせるために、律法を養育係としてご自分の民に与えられた。それは完成されるためのものではなく、みな不完全な者であることををわきまえ知って、キリストを求めるためのものである。
神である主は一本の唐胡麻を備えて、ヨナの上をおおうように生えさせ、それを彼の頭の上の陰にして、ヨナの不機嫌を直そうとされた。ヨナはこの唐胡麻を非常に喜んだ。(ヨナ4:6)
神はヨナを強い日差しから守って喜ばせた。それが一夜にして枯れた時「死んだほうがまし」と怒るヨナに、
主は言われた。「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。
ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」(ヨナ4:10~11)
神の愛を語り聞かせ、愛していない命などないことを教えられた。家畜に至るまで滅びてもよい命などないことを・・。
神はヨナを喜ばせてから教えられた。ヨナを愛していることを経験させて神の愛のかたちを知らされた。それは限られた愛ではなく、創造したすべての命に対する愛であることを・・。
神の愛を経験する時に人は初めて、的を射た礼拝を捧げることができる。主を知ることを求める者を、愛のうちに育ててご自身を知らせてくださる。とき人は神の権威に、その聖さと無限の愛にひれ伏すことを知るのである。
神が愛であることを知り、どんな時もキリストの御救いに安息する中で、みことばの御約束を恐れて、御前にひれ伏す礼拝を捧げるのである。神を愛する従順をもって・・。
主の愛と憐みの中で生きていると、自分の身や世に起こる事々に「なぜですか」と神を責めることばを口にすることは決して無い。神の義と愛の狭間で、支払ってくださったキリストの犠牲を思って、「アーメン」と平安の中でひれ伏すようになる。
あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。(Ⅰヨハネ2:27)
教える方は注ぎの油とある。聖霊の導きによる経験の中で躾けられることは、神の聖と愛に対する従順である。キリストの十字架による救いの完全によって義とされたとき、人は神の聖さに触れて行くのである。聖霊はそのような私たちに、日々みことばを解き明かし永遠まで導いてくださる。
彼らはもはや、それぞれ仲間に、あるいはそれぞれ兄弟に、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らがみな、小さい者から大きい者まで、わたしを知るようになるからだ。(へブル8:11)