
わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。(ヨハネ10:14~15)
主の羊は主の声を知っている。その知り方は、父と御子の関係と同様であるという・・。これはすごいことである。
私たちは本当にそれほどに主を知っているのだろうか・・。いや、御子と御父のような交わりを経験しているだろうか。
わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。(10:17)
御父と御子の愛には条件があった!これは驚きだった。
でも、このことは私たちにも当てはまると思う。私たちも主に信頼して居れば、自分の人生の計画をまず主に委ねて、家族を巻き込んでイエスさまについて行くだろう・・。それをせず、主に関係なく自分の選択によって生きている者を、主はどうすることもお出来にはならのだから・・主を知ることはないということになる。
幸せのために頑張って生きている世にあって、あえてみことばを選ぶということは、自分発のものを「捨てる」ことによって、主を「得る」こと・・。
自己追求から、ひたすらにイエスさまを探り求めることになるのだから・・。だから私たちも「自分のいのちを捨てるからこそ、父は愛してくださる」と言えるのだと思う。
しかしそれは世には愚かなことであり、時に正気の沙汰とは見えないだろうけれど・・。
ペテロは、イエスさまを「主」と呼んだ時、すべてのものを捨てた。折角イエスさまが釣らせてくださった大量の魚も捨てて従って行った。(ルカ5:8~11)彼がイエスさまを「知る」時、彼の人生のすべての計画、選択は180度変わった。
群衆がイエスさまに付いて来たのは、食べたら無くなるパンのためであったけれど・・。弟子は唯一いのちなる方を知ることを選ぶ。これが群衆と弟子の違いである。
だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父ら受けたのです。」(10:18)
イエスさまが十字架でもう一度得る権威によって得てくださったいのちは、私たちの永遠のいのちである。私たちも十字架を経るのだけれど、それは一度きりのことではなく世に在る限り日々主を知るために、選び取りつつ生きてゆくことになるのだと思う。
イエスさまが気が狂っていると言われたように、私たちの選びもまた世の人には理解できないのは当然だと思う。
それでも神のわざを備え私たちを通して、ある人には創造主なる神を知ることを導いてくださる。それはまったく神のわざであって、人の熱心や信仰の与り知らぬことだけれど・・。
もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。
しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」(10:37~38)
「ヨハネは何一つしるしを行わなかったけれど、彼の話したことはみな真実であった」とあるけれど、これほどの大きな奇跡はないと思った。