もしあなたがたが、私の命じるこのすべての命令を確かに守り行い、あなたがたの神、主を愛して主のすべての道に歩み、主にすがるなら、(22)
キリスト者にとっては、すべて敵がどのようであるかではなく、自分がみことばに聴き従っているかが勝敗を決める。神は私たちが、敵よりも強く賢いことを求めておられるのではなく、弱さを弁え主にすがって生きることを求められるのは、そのとき誰も傷つくことが無く、神の良き計画が完全な形で成るからである。
主はこれらの国々をことごとくあなたがたの前から追い払い、あなたがたは、自分たちよりも大きくて強い国々を占領することができる。(23)
敵と戦って平和を備えてくださるのは主である。主が勝ち取らせてくださるものは、人の貧弱な脳みそには思いもつかず想像さえしたことがないものであり、それゆえに人が先立つことは主の妨げなのである。
あなたがたが足の裏で踏む場所は、ことごとくあなたがたのものとなる。荒野からレバノンまで、あの川、ユーフラテス川から西の海に至るまでがあなたがたの領土となる。(24)
彼らは主の備えてくださった道を、右にも左にも反れない従順によって踏み行くだけである。ご真実な神は、昔も今も私たちの出来ないことを強いることは決してなさらない。
主が導かれるとき目の前の海は渇いた道を備え、行く手を阻む深い谷も、立ちはだかる高い山も主を経験する時となる。
すべての谷は埋められ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい道は平らになる。(ルカ3:5)
だれ一人として、あなたがたの前に立ちはだかる者はいない。あなたがたの神、主は、あなたがたに約束されたとおり、あなたがたが足を踏み入れる地の全面に、あなたがたに対するおののきと恐れを生じさせる。(25)
敵に恐れをもたらせるのは主である。人のはったりや戦略ではなく、見せかけや人の知恵でもないことを、御わざを目にして恐れるべき方を学ぶ。キリスト者が恐れるのも、主のみことばであり人間の何かではない。
見よ、私は今日、あなたがたの前に祝福とのろいを置く。
祝福とは、私が今日あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従った場合であり、(26~27)
主は「永遠のいのちの祝福を得よ」と、キリストの十字架の血をもって罪から洗いきよめ、神の子としてくださった。
それでも、与えられている自由意志によって世を選び取り、主に逆らうことは出来るが、御子をたまわるほどの神の愛を拒絶することは恐ろしいことである。
のろいとは、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が今日あなたがたに命じる道から外れて、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行った場合である。(28)
みことばに聞き従わないことは、他の神々に聞き従っているのである。人間に中立の立場はない。創造主を神と認めないとき、自分自身や、世に溢れるもろもろを神としているのである。
あなたが入って行って所有しようとしている地に、あなたの神、主があなたを導き入れたら、あなたはゲリジム山の上には祝福を、エバル山の上にはのろいを置かなければならない。(29)
私たちは神の祝福とのろいを持っている。主は愛することを命じられ、愛して福音を伝え続ける者であるが、そこには神に敵対するものもあり、その結果の滅びをはっきりと語るからである。
何を愛し何をのろうかは、神に聞き従う者に聖霊が明らかにしてくださる。私たちは主に聴き従うのみである。自分の感情によって主がのろわれるものを愛することはなく、主が愛される者をのろうこともしない。
あなたがたはヨルダン川を渡り、あなたがたの神、主があなたがたに与えようとしておられる地に入って行って、それを所有しようとしている。あなたがたがそこを所有し、そこに住むとき、
私が今日あなたがたの前に与える、すべての掟と定めを守り行わなければならない。(31~32)
主はヨルダン川を渡れと命じられる。キリスト者にも神が与えたものを所有せよと命じておられる。
世では無力な者は力に服従するのみであるが、キリスト者は神の力が完全に働くために無力を誇りとし、自分の無力に閉じ込められることはない。
「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)
キリスト者への掟と命令の最たるものは、キリストの御救いに留まることである。主が備えてくださった永遠の祝福に留まることである。