石ころ

ケルビムを織る(出エジプト26章)

 

 神は幕屋を造るように命じられ、細かな所まで完全に指示されてあるが、最も困難な作業はケルビムを作ることと幕に織り出すことであろう。

 

幕屋を十枚の幕で造らなければならない。幕は、撚り糸で織った亜麻布、青、紫、緋色の撚り糸を用い、意匠を凝らして、それにケルビムを織り出さなければならない。(1)

 

 私は昔、西陣織の職人として一生働きたいと、ただ働きを経て一人前に織れるようになったとき、皮膚結核に感染して挫折してしまったことがある。それでも唐織の経験があり歌舞伎の衣装や袈裟、金襴などを織った経験を持っている。

 

一反織り上げるのに一カ月ほど要する仕事ではあったが、それほど困難な作業では無かったのは、機(はた)に模様が仕込まれていたからである。
模様が明確であるなら何でも織ることができるが、見たこともないケルビムの栄光の姿はどのように描いたのだろうと・・、幕屋の指示の中でもこのことに関して、漠然と「意匠を凝らして」とあり、ケルビムについて思いを巡らせていた。

 

 アダムとエバが園を追い出されたのちに、神が園の入り口を守らせたケルビム。しかし、彼らがその姿を知ろうはずもない。
それは聖書の言葉を導かれたように、神の霊による導きがあったのかもしれないが、「意匠を凝らして」という言葉が引っかかった。

 

エゼキエル10章にその姿が書かれてあるが、それはあまりに異様な姿であり、読んでもなかなか思い描くことはできない。

ケルビムの姿は頭上に水晶のように輝く大空があり、人間、獅子、雄牛、鷲という四つの顔、四枚の翼には人間の手のようなものがあり、黄金の目、緑柱石の輝きの自転する四個の車輪を持ち、からだ全体と、背、手、翼、四つの輪の周りに目がたくさん付いているとある。

 

 人間が思い描く天使は、無垢な赤ちゃんに真っ白い羽が生えていて、そのような姿は清らかさ感じるが、ケルビムの姿は人には異形である。度肝を抜く姿は美しさとは程遠く、清らかさを感じることも困難である。

 

空を持っているという・・人間には想像することもない姿、常識で思いつくこともなく、人間の美的感覚からは受け入れがたいものがケルビムの姿であった。
しかし、ケルビムはナンバー2の天使で「祈るもの」という意味があるというそれは、もちろん神のお気に入りであり、神が完成された姿なのだ。

 

人は共通の美や清さの感覚をもっているが、それは神と同じではないのだ。何処かで、人が美しいと感じるものが、神にも美しいのだと勘違いをしている。
聖さにおいても正しさにおいても、人の感覚が神と共通していると思い込んでいるから、神がわからなくなるのではないか・・。

 

 イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。(マタイ27:44)

しかし強盗の一人は、十字架のキリストの聖さに気付き、自分の罪を悟った時にイエスに願った。

「おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」
そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:41~43)

 

その一言で強盗をパラダイスに迎え入れるイエスを、罪の誘惑と懸命に戦いながら生きている人間にどうして理解できるだろう。何の知識もなく善行もない強盗の罪が、一瞬で赦され一言で永遠のいのちを得て救われたのである。

 

神の価値観と人の価値観は違うのだ。ただ、神はすべての権威をもっておられ、善人も悪人もすべては、神の憐みに拠って救われるのである。
それゆえに、御子を身代わりにされる価値などあろうはずもない私が救われ、今もその恩恵に与って生かされている。

 

私はもう年寄りなのだから、遠からずすべてを知る望みがある。ケルビムを見るのかも・・。少々驚く姿だけれど、導かれつつ意匠を凝らしたケルビムの幕を織ってみたくもあった。今は残りの命を用いて、みことばで聖所の幕を織らせて頂く幸いに在る。


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