もしわたし自身について証しをするのがわたしだけなら、わたしの証言は真実ではありません。
わたしについては、ほかにも証しをする方がおられます。そして、その方がわたしについて証しする証言が真実であることを、わたしは知っています。(31~32)
イエスを証するのは、みことばの真実が現われるわざにある。イエスの口より発した神のわざを目の当たりにして、心の直ぐな人は神のキリストを悟る。
そのように福音を伝える者に対しても、みことばを解き明かしてキリストを語らせ、みこころを生きようとする者には共に居て、誉められている時も責められている時も、私たちたちが神の子であることは、神が証してくださる。
御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。(ローマ8:16)
あなたがたはヨハネのところに人を遣わしました。そして彼は真理について証ししました。
わたしは人からの証しを受けませんが、あなたがたが救われるために、これらのことを言うのです。(33~34)
ヨハネは「私はキリストではありません」と語って、イエスを証して、「この方の履き物の紐を解く値打ちも無い者」と証言してイエスを指し示して「見よ。世の罪を取り除く神の子羊」と証したのだ。
ヨハネの言葉を聞いた人には、神に造られたものとしてキリストに従順するのは当然であり、従わないことは神の敵であることを証する。
イエスがヨハネを先に遣わされたのは、キリストを指し示すヨハネの言葉を聴いて、聖さに渇き、罪をきよめられるためにキリストに集まり、人々が御わざによってキリストを信じて救われるためである。
ヨハネは燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうとしました。(35)
人々はヨハネの言葉に救い主の到来を喜んだ。ヨハネはイエスに導くともしびであった。その光に集まった人々は、それぞれが自分のキリストを思い描いて喜んだのである。
しかし、わたしにはヨハネの証しよりもすぐれた証しがあります。わたしが成し遂げるようにと父が与えてくださったわざが、すなわち、わたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているのです。(36)
キリストの御わざを見る目が、きよい霊の目に拠らなければ、父なる神の証も見えないのである。神に逆らうあらゆる理屈がその目を閉ざすからである。
パリサイ人たち宗教家がそうであったように、肉の人にはどのような神のわざを見ても聞いても、救いの実を結ぶことはなかった。
イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」(ヨハネ6:29)
キリストの御わざはキリスト者をも証してくださる。主と共に生きている者を、神の子であると証してくださるのは、福音を聞いて救われるべき人々のためである。
また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださいました。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたことも、御姿を見たこともありません。(37)
神の御声を聞き御姿を知る方が、天から下って来てくださったことにより、誰でも聖書から知ることが出来る。イエスは真の神の御わざと、みことばを使徒たちの働きによって、示していてくださっている。それゆえに私たちには自分のいのちに対する責任を負うのである。
また、そのみことばを自分たちのうちにとどめてもいません。父が遣わされた者を信じないからです。
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。(38~39)
長い歴史の中でキリストを待っていた民が、目の前で成される神のわざを見たとき、その方が父なる神が遣わされた御子イエスであることに気づかないのは、みことばを心に蓄えて思い巡らせつつ、期待していなかったからである。
イエス・キリストの御わざを示されても悟ることがないのは、彼らがみことばに信頼しておらず、キリストに渇くこともなかったからである。
彼らがヨハネを喜んでキリストに期待したこととは、何に渇いてのことなのか何を得るためなのか。それは、永遠のいのちを求めてのことなのか、この世の勝利を求めてのことなのか。
それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。
わたしは人からの栄誉は受けません。(40~41)
イエスは人に仕えられようとして来られたのではない、人となられたイエスは罪なき身を嘲られ、鞭打たれて、十字架で死んで人に仕えるために来てくださった神である。
彼が人から受けられたのは栄誉ではなく、嘲りと鞭と十字架であった。すべては神の一方的な愛から出たことである。
しかし、わたしは知っています。あなたがたのうちに神への愛がないことを。
わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません。もしほかの人がその人自身の名で来れば、あなたがたはその人を受け入れます。(42~43)
神を愛して仕えようとするなら、飢え渇いてみことばを求めイエスの所に急ぎやって来る。権威や権力の座を捨てて、神を知る方のみことばを求めに来るであろう。しかし彼らには、神を求める飢えも渇きも無かった。
もし、イエスがこの世の権力者であれば喜んで迎えに出て来たであろうに。
互いの間では栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたが、どうして信じることができるでしょうか。(44)
神とのお交わりに在れば、赦され愛されている感謝が常にあり、用いて頂ける恵みが嬉しくて、移り変わる人の栄誉には興味を失う。
限りある時の間に、神の備えと導きによってみこころを行い、永遠の神の栄誉を求めるようになる。御顔を仰ぐ日に「よくやった。良い忠実なしもべだ」との御声を聞きたいのである。
わたしが、父の前にあなたがたを訴えると思ってはなりません。あなたがたを訴えるのは、あなたがたが望みを置いているモーセです。(45)
彼らの先祖はモーセが語る神の言葉を、人の言葉に落として聞き続けた民である。何時になっても彼らは、主のみこころに望みを託すことはなく、目に見える栄誉を求めた。
もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことなのですから。
しかし、モーセが書いたものをあなたがたが信じていないのなら、どうしてわたしのことばを信じるでしょうか。」(46~47)
モーセは神のみこころを行う器である。モーセに従う者は神に従う者であり、神に従う者はイエス・キリストのみことばに信頼して命を預け、永遠の希望を選び取って生きる。やがて裁きの座で神と顔を合わせることを知っているからである。