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新共同訳聖書が欲しいことを姉妹に話したら、持っているので良かったらあげると言ってくださった。即座に「ちょうだい」と言った次の日に聖書は送られて来た!
とてもセンスの良い手作りカバーも添えられていた。早速カバーを着せてワクワクとページを繰った。
そもそも私はどんな本であれ印を付けたり、端を折ったり、書き込んだりして汚してしまう癖がある。そうして本をどんどん消耗してしまうのであまり手元に残らない。
時々、あの本をもう一度読みたい!と思う時もあるけれど自業自得、後の祭りだ。
息子は本の帯まできれいに保存するから、私が彼の本を扱う時ハラハラされて「丁寧に扱え」と苦情を言われる。
私にこのような癖がついたのは、物心ついて以来古本ばかり買い漁って、ただ中身を読みたいその一心だったからだろう・・。表紙のない文庫本をポケットにねじ込んで、暇を見つけては読んでいたような貧乏人だったから。
聖書も書き込みがいっぱいになって、それが邪魔で時々替えなければならなくなる。新改訳は主人のほとんど無印の聖書が残されてあって、最近は手元に置いている。
新共同訳に興味もあり、頂いた無印の聖書を開くワクワク感は格別でとても嬉しい。
わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。(ヨハネ10:29)新改訳
わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。(ヨハネ10:29)新共同訳
ヨハネ10章を読んでいて29節の訳の違いに気付いた時、考え込んでしまった。
「父が偉大」と「父がくださったものは偉大」これは大きな違いであると・・、でも少し考えていて気付いた。
そう、聖霊はいつもハッと気付かせてくださるから、決して行き詰まることはない。
父なる神は「すべてにまさって偉大」アーメン。そうして、その神様の偉大さは、御手を経る者に偉大な価値を付けるのだ。
その者が、偉大な神様のおことばに留まるなら、そのおことば通りの価値がその者の価値と成る。なぜなら、その方のみこころだけが唯一の真実なのだから・・。
どちらの訳にも「すべてにまさって偉大」「すべてのものより偉大」と「すべて」がある。このすべてとは「サタン」にも「世にも」勝る偉大さなのだ。だから平安があるようにということ。それは私たちがどうこうと言うに遙かに勝る真実なのだ。
まして、御子の血潮にあがなわれた者には、誰も計れないほどの価値が付けられているのだろう。そのことを知っていようと知らなかろうと・・。
しかし知るなら、父に留まることだけで永遠に変わることのない真価が、その人に平安の実を結ばせることになるのだと思う。
御名があがめられますように。