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またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(ヨハネ9:1~3)
いつ読んでも弟子の質問には痛みを覚える。そうしてイエス様のおことばに逆転の爽快感を覚えるのだ。
すべては、ただイエス様のお目にとまったことの幸いなのだけれど・・。
イエス様は不思議なことをされた。地面につばきをして泥をつくり盲人の目に塗られた。私は以前、イエス様のなさりようを嬉しくは思えなかった。
しかし今は違う。お心一つで癒せる方が、もう一度地の塵と主の口から出たものを用いて手でこねられた。まるで陶器師のわざのように、盲人は手を掛けて造り替えられたのだ。
イエス様は、彼に共に働く役割を課して「シロアムの池で洗いなさい」と癒しに時間をかけられ、「アーメン」とお言葉に従った時目が開かれた。
それによって彼の霊、魂、体の癒しがなされたことが、この後のパリサイ人とのやりとりで良くわかる。彼はイエス様のみこころの通りに成長し、パリサイ人相手に堂々とイエス様を証しする者とされた。
「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」(9:15)
「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(9:25)
「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」(9:27)
「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。
神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。
盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。
もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」(9:30~33)
そうして彼は、満座のユダヤ人の前で信仰を告白してイエス様を礼拝した。彼の身に神のわざは実を結んだのだ。
そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」(9:39)
姦淫の女には「わたしもあなたを罪に定めない」といわれたが、神のわざから堅く目を閉ざして御子を否むパリサイ人には、「あなたたちの罪は残る」と言われた。こうして彼らは罪に定められる方を選び取ったのだ。
神のわざは、救いと滅びを光の中にさらけ出す。
「あなたは人の子を信じますか。」
その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。(ヨハネ9:35~38)