人が、城壁を巡らした町の住居を売るときは、それを売ってからの一年間は買い戻す権利がある。買い戻しはこの期間に限る。(29)
住居は家族が生きる場所である。それは耕作地ではないので、落ち着いた生活を守るための、家族に対する優しさであろう。一年以上生活をしていて子供がいるかもしれない住まいを、追われることがないようにという神のご配慮であろう。
主により頼む者には、主が家族ぐるみの暮らしを守ってくださる。みことばにより頼み、主に安らう家庭には、永遠の望みとキリストの平安がある。
また、彼らの安住の先は、キリストが天に備えてくださった永遠の住まいが待っている。
もし満一年になるまでに買い戻されないなら、城壁を巡らした町の中のその家は、買い戻しの権利の喪失により、代々にわたってそれを買い取った人のものとなり、ヨベルの年にも彼の手を離れない。(30)
私たちには、キリストを通って入る主の砦が在る。キリストが罪びとのいのちの代価として、十字架で流されたきょめの血潮を受け、キリストにあがなわれた事実を告白して、主に身を寄せている者が、永遠の住まいを追われることはない。そこは悪魔やサタンは決して近づけないキリストの城壁である。
レビ人の町々、すなわち彼らが所有している町々の家については、レビ人にいつでも買い戻す権利がある。
レビ人が買い戻すものに関しては、彼の所有地の町で売られた家はヨベルの年には手放される。レビ人の町々の家は、イスラエルの子らの間にあって彼らが所有するものだからである。(32~33)
レビ人は神に仕えて養われる民である。それゆえ彼らには神のものが与えられ、神が彼らの必要を満たされる。このことは無限の豊かさを持っていることである。
それはキリスト者も同じであり、私たちは神に仕える祭司であるから、何処に在っても、どの時代に在っても神によって養われる者である。
それゆえに、この世に地所を持っていなくても、老後の2000万円がなくても、気前の良い主の、無限の財布を持っている身は、世界の大金持ちよりも豊であり、霊にも魂にも体にも、思い患う必要の無い者なのだ。
アブラハムやロト、ヨブのように多くの財産を持っているなら、それらを世で管理をする責任があり、それらが増えても減っても人の心は騒ぐものである。そこでは財産を支配する信仰が必要になる。
日々に必要を満たされる者には、すべてを神が管理してくださっている気楽さがある。朝毎のマナで生きる時は、朝毎に主を味わうことが出来るのであり、日毎にすべての必要を求めてたまわるとき、賛美と濃密な御交わりの時となる。彼らは決して主を忘れることはない。
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
御霊を消してはいけません。(Ⅰテサロニケ5:16~19)