およそ愛の無い者に、完全な愛である神のことばを伝えさせ、義のない者に、神の義を語らせるのはアイロニーである。
それでも臆面もなく、顔を赤らめもせずに語り続けて止めないのは、うちに満たされることばに拠る。それを押しとどめる術がないのだ。
神のことばを語るのに、自分を差し挟むことはナンセンスであるけれど、それでもうめき声が漏れるとき、聖霊が望みのみことばで覆ってくださる。
「見よ。わたしはあなたの顔を、彼らの顔に合わせて硬くし、あなたの額を、彼らの額に合わせて硬くする。
わたしはあなたの額を、火打石よりも硬いダイヤモンドのようにする。彼らを恐れるな。彼らの顔におびえるな。彼らは反逆の家なのだから。」
その方は私に言われた。「人の子よ。わたしがあなたに告げるすべてのことばをあなたの心に納め、あなたの耳で聞け。
さあ、捕囚になっているあなたの民のところへ行き、彼らに告げよ。彼らが聞いても、聞かなくても、『神である主はこう言われる』と彼らに言え。」(エゼキエル3:8~11)