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メッセージの後に大岩がど~んと落ちて来たように感じられることがあって、私は気落ちして早々に帰路についたのだけれど、バイクで走りながらメッセージを思い返している内に、まさに語られたことが起こったのだと気づかされた。すべて話された通りであったのだった。
でも、エピソードとして語られた「ど根性大根」のことから望みに導かれて行った。
種は神様が仕込まれたいのちが満ちているものであり、たとえアスファルトで塞がれても、岩に邪魔されても、実を結ぶことが出来るものなのだと。
種がアスファルトの上に落ちたのではなく、上を塞がれたのであるなら、種は乾きによって地下に根を張ることはできる。どんどん深く根を張って行くだろう。
それはもろもろの障壁の中にあって、心にみことばが残っている時のよう・・。
夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。(マルコ4:27)
種は命に満ちると光を求めて岩を少しずつ割り、アスファルトを少しずつ削って伸びて行くことが出来るのだ。その内に成長する力が蓄えられているから・・。
たとえそれが稀であっても・・いや稀だからこそ、備えられてあるいのちの力に驚き、見た者の喜びは大きい。
それが人の頑張りや根性ではなく、種に込められている神のいのちと知るなら、それは世の基の置かれる前から、神様によって選ばれた者にある遠大なる計画の成就であると知るなら、石割桜以上の美しいいのちの誕生である。
それがまったく神様によることだから美しいのだ。塞ぐものが大きければ大きいほど、感謝も感動も深いのだと・・。
それでも心の疲れを覚えて外に出た。気持ちが重いときは体を使うことが一番の薬なのだ。膝を痛めていたので歩を緩めつつ何時ものコースを行った。瑞々しい若緑が頭上ら足元から押し寄せて来るようで、毎年この季節はその勢いに気圧されて「お手柔らかに・・」と思ってしまう。
すると、道の真ん中で大きな蛇が死んでいるのを見た。
あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。(詩編91:13)