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小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。
彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱいはいった金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。(黙示録5:7~8)
金の鉢いっぱいに満たされた香は聖徒の祈りとある。それは鉢一杯に溢れるほどに満ちていなければならない。
私の戦いの日に、主は私の杯を溢れさせてくださったから・・。
その祈りは天の必要を満たすものであって、地の必要のためではない。それは祈りを賜ったゆえに、知性や感情の預かり知らない所で、ただ従順によって捧げる賛美と祈りである。
御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。(ローマ)
地のための祈りはそのほとんどがうめきとなる。御父と御子の交わりに在って、聖徒の必要はすでに備えられてあるから、それに加えて祈る時、注意をしなければ不信仰な祈りとなるので、実はどう祈って良いのかわかならないのだ。
家族の危急の時は、御父と御子の交わりに入れていただいてどうして欲しいのかを申し上げる。それは私が平安を頂くためのようなもので、御父は御子イエスさまを与えるほどに私の家族を愛してくださっているので、「みこころがなりますように」が彼らにとって最善であると知って居る。
御父と御子にある交わりは慰めに満ちていて甘い。今日まで必ずそこにある御父の最善を経験させて頂いた。
主人は病んで召されたけれど、ずっと主の最善を疑ったことはない。死の淵にあった時も、私たちの人格守って下さったという深い感謝が残っている。真に主は脱出の道を天に開いてくださった。
また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」(黙示録14:13)
世にはもろもろの辛いこと悲しいことが起こる。思わず主に細々と助けを求めて祈ることもあり、胸が詰まって言葉を失うこともあるけれど、世に御子を賜ったほどの御父の御愛は事実である。
生きていれば、明日の朝も天の必要のための祈りをするだろう・・。主が祈りのためのすべてを守っていてくださるから。
とりこになるべき者は、とりこにされて行く。剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。ここに聖徒の忍耐と信仰がある。(黙示録)