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今、主人の病気による症状はなにもないのに、検査の負担が精神的に、経済的に、また検査のための絶食によって肉体的にも重い。
それに、子供や孫のために取っておきたい保険を老人が浪費しているようで、気の小さい私たちには気が気ではない・・。
検査によって異常をすべて見つけようとすることが、本当にそれほど大切な意味のある事なのか・・そんなこともつくづく考える。
人の体のことはともかくも、命のことは人の知恵や知識などの賢さによって左右されるようなものではないと思うから・・。
誰だって、今自分の体の中で何が起こっているのか知らない。医学の粋をもってわかっているというなら、それは傲慢か思い込みだろう。
命に関わるものが、今この瞬間に生まれているかも知れないのが生きていると言うことであると思うから・・。
すべてを知っておられるのは造り主だけであり、すべてを支配しておられるのも造り主であるから。命は彼の手の中にあり、それこそが私たち生きる者の唯一の安心なのだ。
スズメの一羽でさえも、彼に知られずに死ぬことはないのだから。
しかし、すべてこの無駄とも思える手続きを飛ばしてしまうことが最善なのか・・と問われると、そんなことをすると、どれほど後悔することになるか分からないとも思う。
今は色々な説の本もあり私も読んでいる。それらは、どちらを選ぶにしても脅しのようにも思えてしまう。
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ただ、このように思い迷うことこそが愛から出ているのであれば・・
医師は自分の最善を行おうとしているのかも知れないし、本人は、家族と共に居たいから生きようと願い、家族も失いたくないから出来ることはなんでもしてあげたいと思う。それらはすべて愛である。
ただ、誰も御子をくださったほどの御父の愛を持ってはない。もっともすぐれた愛の方を知っている、いや、知られていることの幸いに根ざして立っていよう。
何が良いことで何が良くないことなのか・・本当のところ人にはわからない。ただ、主に依り頼みつつ選ぶなら、すべてのことがそれで良いのだと思う。
主に在って悩み、主に在って安息し、主に在って語り合い、選び取ってゆくことが愛の交わりなのだろう・・。今は、命の凝縮された濃い交わりの中に居るのだろう。
その交わりは、父と御子と聖霊とキリスト者の交わりハレルヤ!
私たちの執着することはただひとつ、すべてにおいて御名をあがめ主のご愛を喜び、備えられた永遠のいのちを受ることなのだと・・。