
エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。
「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。(ルカ19:41~42)
イエスさまはエルサレムを愛して、涙を流された。神の訪れを悟ることのない宗教者、平和の君を殺してしまう盲目を嘆かれた。
おまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」(ルカ19:44)
その町が破壊されるときに、流される子どもたちの血のために泣かれた。神殿は形骸化され、神の権威は宗教者に盗み取られていた。
「わたしの家は、祈りの家でなければならない」と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。(ルカ19:46)
信仰を商売にする者はイエスを殺す強盗である。みことばを自分たちの言葉にすり替え、神の権威を盗んでいるのだ。
農夫たちはその息子を見て、議論しながら言った。「あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。」(ルカ20:14)
神の訪れの日を知らず、神の息子を殺して強奪した権威である。しかし、彼らの拠り頼む人の権威は、人を恐れ人に縛られ滅びに至るものである。
神の権威の下に身を置く者は、ただ神のみを恐れ人に縛られれることはなく、平和の内にいのちを得るのである。
イエスは、彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。
この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」(ルカ20:17~18)
救いの礎はイエス・キリスト。この方に自分から落ちた者は砕かれ、悔い改めのいのちを得る。
しかし、裁き日にこの石が落ちて来た者は、神の国から遠く吹き飛ばされて滅びるのである。