
イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。(ルカ5:3)
イエスさまは押し寄せる群衆のために、後にペテロと呼ばれるシモンの舟の上から教えを語られた。だからペテロはイエスさまの最も近くでメッセージを聴いたのだ。
そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ローマ10:17)
ペテロは聴いて得た信仰によって、イエスさまのみことばの力を経験をした。聞き流すだけでは何十年間聞いても経験することはないけれど、キリストの信仰を得た者が疑問を持ちつつも即座に従う時、イエスさまはその小さな信仰を祝福して、ご自身を現してくださるのである。
話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。
するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。(ルカ5:4~6)
網が破れるほどの大漁を経験した時にペテロはイエスさまを礼拝した。彼がそのとき目を留めたのは大漁の富みではなく、イエスさまにある神の栄光であった。
だから、すべてを捨ててイエスさまに付いて行ったのである。大漁の富と共に世を捨てたのである。
人生のすべてと引き替えに、「人間をとるようになる」ことを選んだのである。
群衆は病人を癒してくださるイエスさまを、自分たちの所に置こうとして引き留めた。
朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。群衆は、イエスを捜し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。(ルカ4:42)
群衆は世のものの上にイエスさまを得ようとして求める。
弟子はイエスさまにある神の栄光を知ったことのゆえに、用いれば消えて行く大漁の富みへの魅力は失せ行き、喜びを分かち合うために「人を滅びることのない御国に移す」弟子の魅力に捕らえられてゆくのだ。
今、イエスさまは信じる者のうちに居てくださる。それは引き留めているからではなく、みこころを行うために「人間をとるようになる」ことを求めて付いて行くからである。