あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。(ルカ6:41)
梁、それは善悪の木由来の価値観である。霊の目が開かれるまでは、すべてのことを生まれながらの目を通して判断をするのである。
その脚色のなかで語られる福音は、一朝事があれば人の口先に過ぎないことを暴露してしまう。人の耳に優しい言葉は世に溢れているけれど、それらは滅びに対してはなんの役にも立たないのだ。
霊によって聴いたみことばをそのままにはっきり語るべきは、聖さのゆえである。
純粋な福音は神のご計画によって備えられたものであって、その実は生涯を通して計画されて、時間に耐えて実を見るようになるのである。
キリストを十字架につけろと叫んだ人々の、憎悪を生むことばをも与えられれば語る時、そのことばは右の耳から左の耳に抜けてゆくものとはならず、人の内に留まり続けて救いとなり、また裁きともなるのである。
誰が神の篩(ふるい)から救い出す事が出来るだろう。いのちを賜ったキリストの執り成しの中で起こることである。
兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。
私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(ガラテヤ1:11~12)
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