あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたがたはエジプトの地で寄留の民であったので、寄留者の心をあなたがた自身がよく知っている。(9)
私たちの弱さや悩みに寄り添うために、神であるキリストが人となってくださった。それもすべてを創造された方が、被造物である人間の庇護を受けて育てられる赤子の姿で来られ、両親に仕えて世のもろもろを経験してくださった。
心は燃えていても弱いからだの経験、そう、打たれたら血を流す痛みと苦しみ、罪の結果である死のからだを経験してくださったのである。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。(へブル4:15)
キリストのあわれた試みを思う時、罪を知らない方が罪の世に住むことが、どれほど忍耐の連続であったことだろうと思う。罪を持った人を憎まず、見捨てず、愛して期待し続けることには、どんなにか祈りの中で御父の助けを求められたことであろう。
霊が死んでいることから来る人の鈍感さ、恵みを覚えることのない愚かさ、他者への無慈悲・・人の弱さや罪があるままで受け入れて愛し、時に反抗する者に期待してみことばを語り続け、神のわざを行って救い主を知らせられた。
コロコロと変わる人の心を見ながら、救いの完成の十字架に向かって進まれ、「降りて来い。そうしたら信じてやる」という罵りの中で死ぬという、人の弱さを負って救いを完了された。
キリストほど愛することの難しさを経験された方は無い。それゆえ、私たちが愛に困難を覚える時にも助けてくださるという望みがあるのだ。
六年間は、あなたは地に種を蒔き、収穫をする。
しかし、七年目には、その土地をそのまま休ませておかなければならない。民の貧しい人々が食べ、その残りを野の生き物が食べるようにしなければならない。ぶどう畑、オリーブ畑も同様にしなければならない。(10~11)
貧しい人や獣に与えるための一年間で、それは貪欲からの守りでもある。人の欲望は限りがないからである。
もし、神の手に世の産物を委ねるなら世に貧しい者はいないだろう。キリストの養いでは、5つのパンと2匹の魚で5千人以上の人が満腹して、余ったパンきれが12籠もあったのだから・・。
神は野生の生き物にも配慮するように教えておられる。自然をコントロールするためには神の知恵が必要である。獣が異常に繁殖したりするのは、それらの数を制御するために備えられた天敵が絶滅した所為である。それらが絶滅したのは人間のどん欲の結果である。
イエスは王宮ではなく、庶民である大工の家に生まれてくださった。そう、すべての立場にある人に寄り添うために、貧しい人が恥じてキリストを避けることがないように。そう、イエス・キリストは人の霊の、魂の、生きる糧の貧しさを知って同情していてくださる。
六日間は自分の仕事をし、七日目には、それをやめなければならない。あなたの牛やろばが休み、あなたの女奴隷の子や寄留者が息をつくためである。(12)
此処では異邦人である寄留者や奴隷を隣人として扱っているのだ。同じ神の作品である人として、同情の中で休息の必要が備えられている。
このことからは、神がどれほど細やかに人をご存じであるか、すべての人を愛しておられるかを知るのである。
神が創造を終えて休まれた七日目は、神が安息日として人に与えられた日である。何かを成す日ではなく、神をほめたたえてくつろぐ喜びの日であり、たまわっている命が安らぐ日である。今、この日に本当に安息しているのだろうか。
わたしがあなたがたに言ったすべてのことを守らなければならない。ほかの神々の名を口にしてはならない。これがあなたの口から聞こえてはならない。(13)
神のすべてのことばを守らなければならないのは、みことばの祝福に留まるためである。
創造主が万物の神である。他には神は無い。この世の神と名乗るサタンは、人にあらゆる神々を通して自分を拝ませ、誘惑し反抗させて神の愛から引き剥がし、自分に定められている滅びに連れ込むのである。それら神々とは人を殺して滅ぼすものである。
創造主なる神はひとり子イエスを遣わし、人の罪の代価をキリストの命で支払ってあがない、永遠のいのちに生かす神である。罪の報酬は死でありあがないが必要だからである。
この世に在る間も、信じる者には祝福のみことばによって守り導き、折々の知恵や悟りを与えて守っていてくださる。神の憐みと恵みに在る者が、聖霊によって口にするのはイエス・キリストの御名である。