![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/b7/12ba04d4546a90f8aae548faeb37cf01.jpg)
災いに遭った者を罪深いという考えは何処の国にもあるんだ・・。なぜ人はそのように考えるのだろう・・、
それは、罪の報いという宗教的な考えから出ているのだろうけれど、災いで傷ついた人をなを追い打ちする考え方である。その根底には、災いに遭わなかったことで、自分自身を善とする思いが潜んでいるのだろう・・。
人は常に、他と比べることで自分を良しとしたい欲望を持っているものだから・・。
でも、イエスさまは言われる。
「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」(ルカ13:5)
災いに遭わなかったことで自分を良しとした者と、災いに遭った者では、どちらが悔い改めることに易しいだろう・・。どちらがイエスさまの救いに近いだろう・・。時に主の救いの備えは人の考えに皮肉である。
いちじくのたとえの、三年間実を成らせなかったことで切り倒すというお話はイエスさまにしては厳しく思える。
マタイ21:19では、いちじくの季節でなかったので、実が成っていないのに枯らされた。
イエスさまがいちじくの実には厳しいのはなぜだろう。その実とは何なのだろう。マタイではイエスさまは空腹であったとある。それは、イエスさまを満たすものであることがわかる。
イエスさまを満たすもの。イエスさまは何を求めておられるのだろう・・。
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(Ⅰテサロニケ5:16~18)
この実は季節を問わず、良いときも悪いときも、救われた者の生き方そのものである。
ダビデのように・・。
(ダビデによるアビメレクの前で気違いを装い、彼に追われて去ったとき)
私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。
私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。
私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。(詩編34:1~3)
肥やしをやって様子を見ましょうと管理人は取りなしたとあるけれど、それはイエスさまの忍耐である。
肥やし・・生活の中で日々主が備えてくださる祝福。でも、気付かない者には無駄であり、求めて伸びる根がないなら、どんなに豊かな肥やしも実は結ばせることはできない。
この救いの実に対するイエスさまの厳しさは、御父のみこころを成すためであることがわかる。