割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。
この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。
これからは、だれも私を煩わせないようにしてください。私は、この身にイエスの焼き印を帯びているのですから.(ガラテヤ6:15~17)
三位一体の神である聖霊の内住には、キリスト者を御住まいに相応しく、聖霊の炎によって十字架によるきよめのしるし、イエスの焼き印が押されている。
その人にサタンは指一本触れることも、訴えることも出来ない。三位一体の神の御住まいだからである。
聖霊は霊の深いところにおられるゆえに、外から見て分かるものではなく、ちょっと接して分かるものでもない。同じ御霊によって目を開かれた者には、互いのうちにおられる主に気づいて、みことばを交わし主を共に味わって、喜びに包まれ交わりを楽しむことが出来る。
クリスチャンぽい清楚な装いによって見分けるようなものではなく、人目を引く善行によって知ることでもない。
むしろ昨日まで迫害していたキリストを、今日は臆面もなくみことばを語って歩き回るような、恥知らずのパウロこそが、霊的な生き方である。
聖霊の臨在によって人のあらゆる不自由から解放される時、みことばならどんなことでも出来るようになるのである。鼻から息をする者のご機嫌を窺うことなく、みこころを生きることが出来るのである。
聖霊の導きには、人の失敗や間違いを超越する神のご計画に基づいた力がある。すべては神の権威から出たことである。
その時は人の好評も悪評も何の支障にもならず、ただ主の御声を聴き続け、キリストの平安を味わっているのである。
もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。
そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。(ヨハネ14:15~17)
パウロはうちから語られる聖霊の御声に従って、みこころを行わなければならないのであり、そのための命は寸暇を惜しむのである。
みな同じ御霊によって繋がれている者であり、同じ主を宿しているのだから、私を見習えと言いたいのである。