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ペンテコステの後、ペテロたち使徒のメッセージで救われる人が3000人から始まり、男だけで5000人と信仰者は増えていった。これはかって悟りのなかった群衆の救いである。
私は、イエスさまが悟りのない群衆になぜ語り続けられたのかと不思議に思っていた。たとえ話によっても悟ならいなら何の意味があるのだろうかと・・。
そこでイエスは言われた。「あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者には、たとえで話します。彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです。(ルカ8:10)
しかし、弟子がたちが聖霊のバプテスマを受けた後、群衆はペテロたちのシンプルなメッセージに心を刺された。それは、聖霊の働きに拠ることである。
「イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。(使徒2:36~37)
彼らの中には、イエス様の蒔かれた種が宿っていたのだ。
イエスさまは十字架で救いのすべてを完了され、墓に葬られ、よみがえって天に昇り、約束の助け主なる聖霊を送ってくださった。
聖霊によってイエス・キリストが語られたとき、群衆に蒔かれていた種は芽を出し、ペテロと弟子たちはその刈り取りをさせて頂いた。
イエスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。」(マタイ13:37)
イエスさまは、弟子にはみことばの解き明かしを備え、助け主である聖霊の力によって刈り取りの働きをさせてくださったのである。
聖霊によらなければみことばを語ることはできない。また聞いても悟る力はない。人間の言葉を語るだけでは盲人が盲人の手引きとなるだけである。
サマリヤのリバイバルに、聖霊のバプテスマをさずけるために、わざわざヨハネとペテロが行ったのは、それがどうしても必要なことであったからである。聖霊に拠らずには救いは完成しない。
それはどんな時代も同じ事である。人の賢い言葉ではなく、聖霊に拠って悟るみことば。聖霊によれば幼子にもイエスさまの救いがわかるのでなければイエスさまのお言葉は嘘になる。
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。
そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。(マタイ11:25~26)