

メッセージで聖書をリアルに語られて、反芻するように思いめぐらす時広がりと深さを持って導かれてゆく。このことはとても楽しい。
「真理を語るとき、次々と起こる分裂と混乱。世は真理を受け入れられない。」
覚えがある。教えや道徳としてはすんなり受け入れるけれど、みことばの真理であるイエス・キリストは受け入れられなくて、伝えてきた福音はそこで止まってしまった。
「和をもって尊しとする」とか「仲良きことは美しきかな」と言う言葉が好きな国民性にとって、真理の追究は困難なこと。ヒューマニズムは受け入れられるけれど、唯一の神様中心はクリスチャンにも受け入れられないことがある。
目に泥を塗られて手探りで池に向かって歩いてゆく男を見て、人々は嘲ったと思う。
「泥を塗られていることさえ気が付いていない。からかわれているだけだ」と・・。信仰とはそう言うところをくぐり抜けて救われることでもあると思う。それはイエス様を私のキリストと決めた人の愛の応答。
足なえの男は自分の足を見つめていたら、イエス様のおことばを聞いても歩けなかっただろう。彼は自分の足を忘れてイエス様のおことばに聞き入っていたから、みことばのままに素直に反応できたのだろう。聴き入る者にとってみことばには力がある。
イエス様が居てくださるから、城壁を飛び越えることも出来る。神に見捨てられ石打ちにあって死んだように見られたとしても、再び歩き出す。