地上で主の記念となる場所や、歴史的な行事を伝える事も良いけれど、今や切実に必要なのは、救われた者の霊のうちに在って、平安を守る三位一体の神の宮の事実である。
日々に変化し続ける弱い体や、絶えず揺れ動く感情、それらのど真ん中にあって、何時までも変わることの無い永遠のいのちのことである。
神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。(13)
神の臨在は感じるものではなく、見るものでもなく、みことばに拠る交わりであり、それによって悟る永遠の望み真実の存在である。キリスト者は此処から流れ出るいのちに安息して生きる者である。
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。(伝3:11)
神がどのような存在であるかは、聖霊に導かれて経験する事柄であるゆえに、知った者はどれほどに語り続ける必要があるだろう。助け主なる聖霊を求めることを!
そのお交わりによってキリストの平安を見出す故に、平安がなくてはどうして見たことも無い方を伝えることが出来るだろう。罪ある体を着たままで、どうして「もう聖い」と言いふらすことができるだろう。
私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、その証しをしています。
だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。(14~15)
見てわかることは言い続ける必要はなく、感じられることを語り続ける必要もないが、今信じる者の霊の奥深くに在る永遠のいのちについては、激しく戸を叩き続けるように、その真実を知らせなければならない。神がその人を愛しておられるからである。
私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。(16)