
人はたいがい神を必要とはせず、出来ることなら自分で完全な生き方をすることを望んでいる。でも私のように本当に何も出来ないということで、信仰という方法を生きるために見つけだし、すがっているだけなのだとしたら・・・
そんなことは主が先刻ご存知、人となられたイエスさまはそんな人々をいつもお側に置いくださった。このことにこそ私は安息する。
でも、愚かさゆえ勘違いをすることもあって、それはいつもとても恐い。だから、主が共にいて下さるように絶えず祈りつつ、聖霊により頼み、みことばの光を頼りにする。
人に完全な信仰はあり得ず、主の一方的な十字架の購い、愛による忍耐によって赦されているに過ぎない人間。
信仰の偉人伝に胡散臭さを感じるのは、人間というものが白く塗り込められ、そのありのままの姿が見えず、視点がイエスさまから人間中心に寄っている時、その人の歩み自体まで信じがたくなってしまうからだと思う。
聖書には信仰者の不信仰がそのまま書かれていて、そんな人間を主が愛されたのだと、そのことが深い感謝、感動になっている。それは人間というものの事実を浮き上がらせて、神のご真実を知らせている。
Ⅱサムエル記11章には、ダビデの愚かさや、弱さや、自己中心性や、残酷さが克明に描かれている。その上新約聖書の初めにも「ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、」と明確にその罪が書かれている。
しかし、このことによって聖書が損なわれることはない。それは、聖書が人間が中心ではなく、神の愛が中心であるから
「しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」(ローマ5:20)と、むしろそのことにより神の目的が達成されたのだから、あかしというものを間違えたくないと思う。
コメント一覧

石ころ

イチゴ
最新の画像もっと見る
最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事