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主は、愛しておられるラザロが病んでいるという知らせを聞かれた後も、なを2日そこに留まって動かれなかった。
ジリジリするような時が流れて、イエス様が来られたときは葬られて4日もたっていた。しかし・・ラザロは死を通らなければならなかったのだ。
マルタがイエス様を迎えに出て行った時も、マリヤは動かなかったことから気落ちしている様子が分かる。死は絶望をもたらせるから・・。
しかし、「イエス様が呼んでおられる」というマルタの言葉に、直ぐに立ち上がることができた。絶望している時も、イエス様の御名によってハッと信仰に引き戻されることは、とても幸いなことだと思う。
マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(ヨハネ11:32)
取り乱して嘆き悲しむ人の様に、イエス様は霊の憤りを覚え心の動揺を感じられたとある。人の死はサタンの勝利である。死の前にただ泣くだけの人の憐れを、その時イエス様も完全な人として共有してくださったのだ。
しかし主は、人をサタンの滅びである死から解放するために、神の義のために捧げられるいけにえの小羊として、ご自分を捧げてくださるお方であった。
イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」(ヨハネ11:39)
マルタの「よみがえりを信じます。」と言った信仰には限界があり、イエス様のお言葉に「アーメン」とは言えなかった。私たちの信仰には限界があるから、キリストの信仰に拠り頼まなければならない。
復活の信仰がなかったマルタには、ラザロをかばってその身の腐れを隠したかったのだ。兄弟であるラザロの無残な姿その悪臭を、主に知られることを恐れたのだ。
イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」(ヨハネ11:4)
主はライ病人に触れて癒してくださるお方である。主を汚すものなど何も無い。主の御目に触れ、御手に触れるならすべては聖くなる。だから、はばかることなく腐れたものを御目の前に、光の中にさらけ出さなければならない。
この世はサタンの働くところであり、あらゆる所に罠が設けられているけれど、私たちは時が良くても悪くてもイエス・キリストを語るべきであり、退いてはならない。
イエス様の御名はどのような使われ方をしようとも、それによって主が汚されることはなく、主が罠に嵌ることもない。
滅びるものが滅びるだけであり、主はご自分の小羊をその名を呼んで導き、必ず守ってくださるからである。
私たちは世の出来事によって動揺する必要はない。
世は、物にあれこれと人の言葉による価値を付け加え執着するものだけれど、それに振り回されて抗う事も結局同じ価値観に落ちるのである。
聖書には金や銀も朽ちると書かれてある。いずれ形在る物は朽ちて行く。
私たちは主と共に、すでに十字架で死を通って滅びからよみがえり「平安があるように」と言われたみことばによる永遠の中で生きている。そのことの確信に安らいでいることこそ大切なのである。
わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。
わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父はひとつである。(ヨハネ10:28~29)新共同訳