
盲人の目にイエスさまはなぜわざわざ泥を塗られたのだろう・・。イエスさまはなぜ彼を人の目に曝されながら歩かせるという、ちょっと意地悪な道筋を備えられたのだろう・・。簡単に触れて癒された人もあるのに・・。
彼にはなぜこのような一手間を掛けられたのだろう・・そんなことを主に問いながら読んだ。
弟子は「彼は罪人だからか?彼の親が罪人だからか?」と問う。
このような疑問は、古今東西同じ考え方なのだ。障害がないという事にあぐらをかく人の傲慢が透けて見える。いずれはその傲慢によって、自身の弱さに傷つくことになるのだけれど・・
「神のわざがあらわれるため」イエスさまの答えはいつでも弱者の希望の光。やさしさに溢れている。
誰でも神によって造られた人であれば、その愛は平等にある。たとえ人にどの様に見えようとも、神のわざの現れ「良い計画」を主は持っておられるのである。
わざわざ安息日の癒し、イエスさまはどうしても安息日に行う必要があったのだ。神のわざが現れるために・・。
律法をねじ曲げて人を苦しめ、その上に君臨しているパリサイ人や宗教指導者たちへの警告のために。
その時、彼らの中に分裂が起こり、誤りに目覚める者が起こされるようにと・・。
「あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。」(ルカ12:51)
目を開かれた元盲人の証しはどんどん成長してゆく。
「私がその人です。」癒された盲人であることを人々に告げる。
「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」パリサイ人の前ではっきりと事実を告げる。
「あの方は預言者です。」彼は自分の思っていることを明確に述べ、
「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」証のあり方を教わる言葉だ。
「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」アハハ・・ユーモア、彼は驚くほど強くなった。「障害は彼の罪か、親の罪か」と目の前で噂されても、何も言い返せなかった男とは別人のようである。
「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。
神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。
盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。
もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」(ヨハネ9:30~33)
彼は指導者を相手にイエスさまを教えている。これこそ生きた証のことば。神のわざの現れ、神の栄光である。
イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。(ヨハネ9:35~38)
ハレルヤ!
目に泥を塗るイエスさまの一手間は彼を育て、彼の信仰を完成させてくださった。
長血の女の癒しのときも、イエスさまは群衆の中で彼女にすべての告白を導かれ、彼女の恥を曝された。サマリヤの女にも自身の身の上を曝させている。なにしろ彼女は町中にそのことを触れ回ったのだ。
イエスさまが選ばれた時は、罪の上に絆創膏を貼るような癒しはされない。
闇の部分を残したままでは、神のわざは現れず、父なる神に栄光を帰すことにはならないのだから・・。
たとえ罪の体を癒されたとしても、そんなものはひとときのことで、いずれは滅びる肉に過ぎないのだから・・。
すべてを光の中に曝された者は、罪を処理され光の中を歩むことになる。従う者を霊、魂、体の癒しをもって、主の光の中を歩ませてくださる。
神様は群衆相手ではなく、取るに足りない者の上にご自身の栄光を現される。そういうお方だった。
「わたしの目には、あなたは高価で貴い」(イザヤ43:4)