イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。(マタイ10:1)
イエスは12弟子に奇跡を行うキリストの権威を授けられた。世にキリストの到来を告げ、人々を苦しみから解放するためである。
しかし、その時は主に遣わされる間の限定的な力であったようであるが、今キリスト者のうちにキリストはいつも居て下さるのだから、神の愛のわざをキリストに在って成し得るはずである。
まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。(ヨハネ14:12)
30年以上昔のことになるが、事を決めなければならない役回りに在って、私は示されているみことばに信頼して主人とその座に臨んだことがあった。
主が家を建てるのでなければ建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ守る者の見張りはむなしい。(詩篇127)
その場には、普段は締め切られている偶像の祭壇の戸が開かれてあったが、不思議な平安があり、それが返って主の臨在を確信させた。
会議の中で主は御わざを現わしてくださり、面倒な役割を進んで引き受けてくださる方が、二人も名乗り出られて投票で選ぶことになった。
根回しを進めても何の準備もしない私たちに苛立っておられた方が、「こんなことはあり得ない」と何度も繰り返しておられた。
後に、彼の奥さんがご主人に勧められたと尋ねて来られるようになり、「私は霊に敏感で何時も恐い思いをしている」と話された。
私は彼女と一緒にお宅を尋ねて行った。すると、それ以来彼女は二度と恐い思いをしなくなったと、笑顔で尋ねて来られるようになった。
わざを行われるのは、キリスト者のうちに居られるお方であり、彼女が救いを求めたキリストが、彼女を悪霊から解放してくださったのである。
その時、私はお祈りをしたとは思うが詳細は忘れてしまっている。ただ、非常に嫌なものを感じたことは事実であった。彼女を可哀そうに思ってしたことだけれど、同じことをそう、そうやりたいとは思わない。
それでも彼女の明るい笑顔には喜びを頂き、一緒にイエスさまの御名によってお祈りするのは、とても楽しいことであった。私はみことばの大切さを伝え、聖書を差し上げて毎日読むことを勧めた。
今日、この箇所を読んでいて懐かしく思い出した。彼女はパラダイスにおられるかな・・また会えるかな・・。