わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。(20)
使徒をはじめ、弟子たちのためのイエスの祈りは、彼らによって救われた異邦人の私たちに対する祈りでもあった。
イエスはこのとき世界中の、すべての時の中で救われて行く神の子どもたちのために祈られた。聖霊が教えることは今生きる一人ひとりの「私」のためにも祈ってくださったことである。
イエスの祈りのゆえに、主に信頼するキリスト者の永遠のいのちは神に守られている。この平安のうちにキリスト者は生きている。
父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。(21)
世はキリスト者の何を見ているのか、清楚な装い?豊かな施し?優し気な言葉?賢く力ある活躍?でも、それらは世はもっと優れた演出をすることが出来る。
そもそもキリスト者は世に喜ばれる言葉を語れずに、創造主に対する罪を語り、滅びの死を語り、天地創造を語り、永遠のいのちを語り、イエスの処女降誕を語るからであり、それらは世にはまったく愚かな言葉である。
十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。(1コリント1:18)
みことばは信じない者には愚かな言葉なのである。キリスト者は彼らの期待する言葉を語る者ではなく、彼らには愚かな言葉を語る者であり、気が狂っていると言われた人に似た者である。
世がイエスの言葉を理解できないのは彼らの霊は仮死状態であって、神は霊であるからイエスを信じる者に来てくださった聖霊に触れられ、目覚めた霊によって悟る言葉だからである。
伝えたみことばによって救われる人々は初めに神の選びにあり、聖霊に触れられてのことであり、救いはみことばに在る神の働きに拠ることである。
主に信頼しているから、愚かにも思える救いの言葉を真っ直ぐに語れるのであり、此処で神と人の一つを救われた人々は見るのだ。
またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。(22~23)
主に救われた者は皆イエスの祈りに拠って一つである。それは時代を越えて、国籍を超えての一つであり、それは御父と御子と聖霊に繋がれた完全な一つである。
天地創造の神の栄光を世に現わし続ける一つのいのちであり、人が自分の何かを語るようなものではなく、ただ、イエス・キリストの御わざを語り、世に救いの望みとその喜びを同じ一つの御霊によって伝える続ける者である。
父よ。わたしに下さったものについてお願いします。わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです。世界の基が据えられる前からわたしを愛されたゆえに、あなたがわたしに下さった栄光を。(24)
世界の基が置かれる前からイエスを愛する神の愛、その神の愛に応答するイエスの御愛を得てキリスト者は愛に満ち足りて輝く。
救われた者は喜びに溢れてイエスの栄光を仰ぎ見ており、永遠の光りの中に在るいのちは輝きを失うことはない。世の闇を見ているなら、そのいのちは闇に吸収されて輝きを失ってゆくのである。
正しい父よ。この世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知っています。(25)
どのような能力を持って救われたのか、どれほどの正しさによって救われたのか。いやパウロでさえも自身を罪びとの頭だと告白している。
罪在る者が神の憐れみによって選び出され、御子イエスの十字架の血によって洗いきよめられて、主のご真実に安らぐ神の子とされて生きるのである。
わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。(26)
我がうちに居てくださるイエスの霊は、日々にみことばを解き明かして神の愛を語り続け、試練の日には尚更に、悲しみの日にもそっと喜びを準備してくださり、何時も喜んでいること、感謝して生きることを経験させてくださっている。
それでも御顔を仰ぎ見る日を切望し「主イエスよ。来てください!」と御許で生きる日を待ち焦がれる。
パウロは言う「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」