石ころ

かわいそうに思って駆け寄る愛

 

放蕩息子が帰って来たとき、父はただ、ただ、可哀そうに思って駆け寄って、息子が悔い改めの言葉を口にする前に抱き寄せた。神はこのようなお方である。

 

立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。
もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。(ルカ15:18~20)

 

父は息子の言葉を聞かなくても、彼が心砕かれて帰って来たことを知っている。父に抱かれて口にした悔い改めは、彼自身が平安を得るための言葉なのである。

父は息子が過去を悔いて嘆く姿をなど喜ばない。手の中に在って、父が喜んで準備した料理を食べて、飢えた心を満たす姿が見たいのだ。愛に安息する姿が嬉しいのだ。

 

神は私たちが、聖さに渇いて神の御名を呼び求めるとき、その叫びを聞いて近づいてくださり、御手を伸べて抱き寄せてくださる。心砕かれて御手に飛び込む者を、その罪を問い詰めることなく、責めることもなく、カラカラの飢え渇いていた心に、父の愛を心の底まで満たして、喜びにあふれさせてくださる。

 

そのとき人は初めて神の愛を経験するのである。一方的で無償の愛の存在を知るのだ。それは罪の告白と引き換えではない。神の御子キリストが十字架であがなってくださった「私」の罪のための愛を経験するのだ。とても個人的に・・。

 

罪は御子に拠ってすでに完全に赦されているからである。それゆえ、神に来る者の赦しはいつも無条件である。
自分の罪を思い出して祈る時は、聖い喜びに包まれる。それらから解放されたことを確認するからである。それは賛美と感謝の祈りとなってあふれ出るのである。

勝利を数えて喜ぶために罪を思い出すことがあっても、悔いて嘆くためではない。神が思い出さないと言われたものを、子とされてからも思い出して数えることは、吐いたものに戻る作業である。

 

人がどれほど真摯に罪を思い出し告白しても、それで完全の赦しを得ることはない。人は告白の間も心の中に言い訳があり、他と比べて天秤にかけるからである。
その行為はキリストの完成された救いから彷徨い出て、罪のあれこれを思い出して囚われ、再び底なしの闇の中に引きずり込まれることである。

 

すでに人格が新しくされて新生した者には、それらと何のかかわりもないのである。たとえ、全世界が責めたとしても、キリストの完成してくださった所に留まるのが信仰である。それが新しくされた者の証の場所である。

 

放蕩息子の父が無条件に迎えて、子として新しく装い、権威を与え、人々を招いて手元に取り戻した子を紹介する宴席では、父が準備した席につき、子として振舞えばよいのである。それが父の面目を立てることである。

何の代償も求めない赦しだからこそ、すべての罪を完全に覆う愛で抱きしめられたからこそ、安息して深い愛に安らぎ、まったく新しく育てられて行くのである。この時、喜にあふれて心から救い主に仕え、従順する幸いを味わうのである。

 

イエスさまは癒しにも、奇跡にも何も求めることはなさらなかった。すべては一方的な恵みである。罪ははキリストの十字架の死と共に葬られた。信仰によってキリストと共に新しく生まれた者は、聖い光の中に在り、飢え渇いたそれらの日々は完全に過ぎ去ったのである。

 

聖霊の満たしも一方的な恵みである。それは働きの必要を満たすために、その時に満たして事を成し遂げさせてくださるためであり、私たちが求めるのも働きのためである。

 

十字架の上で強盗の一人は「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」と叫び、それだけで救われた。もう一人はイエスを否んで滅びた。

十字架の痛みはイエスがすべて負ってくださった。私たちに残されてあるのは救いの祝福である。サタンは救われた者をも訴えて、この事実を覆そうとするが・・。


 テレビで、閉じ籠って死んで行く人々のドキュメンタリーを観た。ある方の本棚に聖書を見た時、私はショックを受けて胸が詰まった。本当に・・なぜこういうことになるのだろうと。

家族や社会に責められて、責められて・・期待どおりには生きられなくて、お金にも追い詰められている中で・・。彼には聖書は高価である「助けて」という叫が聞えたような気がした。

 

クリスチャンなので死者のために祈ることは無いけれど、38年も病気で寝ていた男の人に、イエスが「良くなりたいか」と問われた時、ただ、現状を嘆くばかりで「良くなりたい」と口に出来なかった彼を癒されたように、聖書を開いて「イエスさま、助けて・・」と御名を呼んでいたなら、あるいは、今はパラダイスに居られるのではないかと・・望みを託すばかりである。


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