わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。(1)
弟子たちが王として世を支配されると期待していたイエス、病人を癒やし死人を生き返らせ、わざをもって神の愛を現しておられた方が、まさか何の罪も犯されないままに十字架で処刑されるのである。それは弟子たちの期待を完全に裏切ることであった。
まして無実を訴えて戦うことも無く、罪人と共に十字架に曝されて死ぬことなど、どうして受け入れることが出来るであろう。
イエスは弟子たちが絶望することがないようにと、死を経て再び来られること、また彼らのうちに住まわれるようになることを知らせ、滅びることのないいのちの約束を残された。
疑いから信仰を守るものはみことばの記憶である。聖霊は忘れていたみことばを必要な時に思い起こさせて信仰を守ってくださる。
しかし、みことばの蓄えがなければ思い出すことは無く、忘れているようでも霊のうちに聴いたみことばが在れば、聖霊は思い起こさせてくださる。
聖霊はご自身を語られることはないのでイエスのことばを蓄え続けることは、どれほどの良い行いよりも優先することである。
行いが神から発したものであると、その結果に一喜一憂することなく平安に留まることが出来るのも、先立つみことばに拠ることである。
人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。実際、あなたがたを殺す者がみな、自分は神に奉仕していると思う時が来ます。
彼らがそういうことを行うのは、父もわたしも知らないからです。(2~3)
人の善意が神に敵対することは歴史に数えきれないほどある。イエスを「十字架につけろ」と叫んだとき、彼らは神の義を行っていると思っていた。
聖霊によらなければ神の義を知ることは無く、それを生きるイエスを知ることもない。
信じない者にはみことばは愚かである。しかし、みことばに従順する者には永遠のいのちを成就する言葉なので、サタンは人の感情を掻き立て惑わし、激しく抵抗して、純粋なみことばを語る者を迫害する。
無実のイエスを木に掛けたように、いのちの言葉を信じて語る者の口を閉ざそうとする。世の終わりが近づくにつれて迫害が激しくなるのは、ゲヘナが待つだけのサタンの悪あがきに拠ることである。
しかし、イエスは十字架で神の救いを完成し、それに続く使徒たちの殉教も神の栄光を現したのであって、神に捧げられたイエスと信仰者の命に拠って、すでにサタンは完全に敗北しているのである。
これらのことをあなたがたに話したのは、その時が来たとき、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。わたしは初めからこれらのことを話すことはしませんでした。それはあなたがたとともにいたからです。(4)
この日まで弟子たちはイエスを目で見て、手で触れて信じていた。十字架の後は聖霊によってみことばを思い出しつつ、命を捧げるまでにイエスを愛する者となった。
今、キリスト者はイエスを見ることがなくても信じており、聖霊の助けによってみことばから神に愛されていることを知り、イエスの十字架によって罪を赦された者の平安を味わい、御名をあがめつつ、永遠のいのちの望みに生きる者である。
しかし今、わたしは、わたしを遣わされた方のもとに行こうとしています。けれども、あなたがたのうちだれも、「どこに行くのですか」と尋ねません。(5)
弟子たちはイエスの話されることが理解出来ず、いや、受け入れたくなかったであったろう。弟子には今イエスが去って行かれることの意味が理解できないのだ。彼らはそれほどにイエスに信頼してすべてを託していたからである。
神のご計画が人の計画とは真逆であることを知った時、自分を心配するならユダになる。信仰は聴いたみことばに自分と愛する家族を捧げて生きる者である。このことが可能になるのは、聖霊の助けによってみことばが生きて働くからである。
むしろ、わたしがこれらのことを話したため、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。
しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。(6~7)
イエスが地に居られる限り肉の体に縛られたままである。今イエスは一人ひとりのうちにおられ、親密なお交わりを幾万の信仰者にたまわっているのである。
イエスは弟子たちだけの主ではなく、イスラエルだけの救い主ではなく、すべての人類の罪を十字架であがない、罪ゆえに滅びる死を打ち破って、十字架の御わざを信じる者に永遠のいのちを与える、死からの唯一の救い主である。
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。
罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。(8~9)
聖霊に拠らなければ人は神に対する罪を理解することが出来ず、それによってキリストの愛を知ることもないままに滅びの死に向かって行く。
それは皆で渡れば怖くない死ではなく、罪を持ったままに死んだことによって、永遠の炎によるさばきの死である。
聖書は今生きている人々に「イエスに信頼して救いを得よ。イエスの愛に反抗して滅びるな」と警告している。
聖霊に教えられなければ神の義は理解できないのは、神の聖さは罪の存在を受けつけないことであって、そのような義の概念が分からないからである。
人はほとんど無意識に心の中でも罪を犯し、良くない思いに引き込まれ罪に思い巡らせることがある。
そのような心の中にある罪も、実際に行った罪と同じ罪が神の義である。
情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。(マタイ5:28)
義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。(10)
誰も神の義を行うことはない。それゆえ、今はイエスが神の右の座について、私たちの罪が十字架で贖われていると弁護していてくださる。十字架のイエスの血以外に神の義を成し遂げることは不可能なのである。
さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。(11)
すべての被造物は神とイエスの作品であり、この地も神が創造されて人に与えられたものである。此処に神の栄光が現わされるのは、キリストが王として来られる千年王国まで待つことになる。
今は、サタンが堕落した人類を支配してこの地にのさばっている。
しかし、イエスの十字架によってサタンが支配していた死は滅ぼされてあり、創造主なる神を信じる者には滅びの死ではなく、永遠のいのちが与えられているのである。
あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。(12~13)
今、イエスが何を話されても、それを覚えて安息する力は弟子たちには無いが、聖霊は彼らがイエスから聞いていた言葉を時に相応しく思い出させて、解き明かされたみことばを生きる力も満たしてくださる助け主である。
聖霊はご自身を主張したりその考えを現されることは無く、神から出てイエスが話されたみことばを解き明かしてくださる。それゆえ父なる神、子なるイエスキリスト、聖霊は一つのご計画に在る三位一体の神である。
天地創造の神を礼拝する者は、聖霊の宮として主を宿しみことばに聴き従ってイスラエルも異邦人も一つとなる。
私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。(1コリント12:13)