しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。(20)
キリストを愛する者は神の義を語り、イエスの十字架のあがないに拠らなければ、永遠に滅びる真実を伝えて幾人かでも救おうとする。
しかし、創造主を否定する人にはその言葉は愚かに聞え、神に赦しを乞うべき罪の指摘は、自分を信じて生きる者の感情を逆なでする。神が備えられた良心の声にも耳を塞ぎ、目を閉ざしていたい自我は、みことばを語る者を迫害するようになる。
ただそのような時代にあっても、イエスを信じて受け入れる人々が神の初めの選びによって起こされる。それゆえ、時が良くても悪くてもみことばを語り続けなければならないのである。
また、迫害がどのように激しくても、しもべは主人にまさるものではないゆえに、しもべが受ける迫害は主人にまさるものではなく、イエスが受けてくださった痛み悲しみを越えることはない。
イエスは、罪人のすべての罪を負ってくださったゆえに、罪を受け入れることは無い父なる神に捨てられた。しかし、今イエスにより頼む者が神に見捨てられることは絶対にない。それは神の右の座についておられるイエスが執り成していてくださるからであり、如何なる罪もすでに贖われているからである。
どれほど優れた信仰もイエスに倣ったものであり、聖霊によって導かれたものである。人がイエスに拠らずに成し遂げる働きのすべては空しい。
神はイエスの聖さを通してのみ、礼拝も良き働きも受け入れることが出来るのである。イエスの血によってきよめられたものだけが聖なる神の喜びとなる。
しかし彼らは、これらのことをすべて、わたしの名のゆえにあなたがたに対して行います。わたしを遣わされた方を知らないからです。(21)
迫害は神を神としていない者に働くサタンのわざである。天地創造の神を知らず、御子イエスの命に拠る救いを悟らずに、イエスを愛する者を迫害するのは神に敵対するサタンの働きである。
もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今では、彼らの罪について弁解の余地はありません。(22)
イスラエルはイエスの御わざを見たのであり、神の御わざを経験した民族ゆえに神を知ることに置いて責任は重い。主がどれほど彼らを愛しておられるか、その事実を悟らないからである。悟れないのは神のしるしであるイエスのわざを無視し、わざを行うイエスを憎んだことに拠るのだ。
わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいます。
もしわたしが、ほかのだれも行ったことのないわざを、彼らの間で行わなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今や、彼らはそのわざを見て、そのうえでわたしとわたしの父を憎みました。(23~24)
神の選びの民がイエスを憎むことはどれほどの神の悲しみであろう。それは神ご自身を憎んだとあり恐ろしくも悲しいことである。
この天地のあり様を見る時、素直な魂を持っているなら創造主を思うことが出来るはずである。この美しい自然を賢い自然の仕組みを見る時に、造られた方を賛美して主を崇める時が備えられている。
自分の体の仕組みを知るにつけても、愛して造られたことに思いが至るものである。
しかしアダムが食べた木の実による賢さはその素直な感覚を汚し、あらゆる理屈を付けて創造主に反抗するようになった。そう、それはイエスの救いを否んで、永遠に続く滅びの死に引き込む賢さであった。
これは、「彼らはゆえもなくわたしを憎んだ」と、彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。
わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。(25~26)
イエスが十字架で救いの御わざを成し遂げて天に帰られた時、イエスは父なる神に願って聖霊を遣わせてくださった。
イエスを信じる者のうちに住んで霊の目を開き信仰を守る助け主である。聖霊はみことばをその人の日常の中で日々に解き明かし、今成すべきことを教えてくださる。それによって神のご計画を成すことが出来るのだ。
語るべき言葉を与え、造り主を悟る霊の目を開き、イエスの愛を自分こととして経験させて従順する勇気と力を備えてくださる。寝ても覚めても共に居て夢の中にも働かれるキリスト者の永遠の味方である。
あなたがたも証しします。初めからわたしと一緒にいたからです。(27)
キリストを信じる者は産まれる前から神のうちに選ばれた者であって、その霊は初めから主と共にいたのである。
しかしこのことによって、誰も「私は神に選ばれてなかった」と言うことは出来ない。みことばに触れた時に「アーメン」と感謝してイエスによる救いを受け入れるなら、選ばれていたことを思い出すからである。