石ころ

カヤパの預言から(ヨハネの福音書11章)

 

 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた。(44~45)

 

イエスは神のわざによってラザロをよみがえらせ、創造主なる神の愛を不信仰な者に見せてご自身を証された。

 

たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」(ヨハネ10:38)

 

今、イエスの御わざを直接見ることが出来ない者に聖霊が遣わされて、みことばを信じる信仰を助けていてくださる。

イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」(ヨハネ20:29)

その幸いは、聖霊がうちに居て下さる幸いである。すべてのことに助けを与えて天国まで導いてくださる幸いである。

 

しかし、何人かはパリサイ人たちのところに行って、イエスがなさったことを伝えた。
祭司長たちとパリサイ人たちは最高法院を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの者が多くのしるしを行っているというのに。(46~47)

 

彼らが御わざを見てもイエスを礼拝することはなく、パリサイ人に走ったのは心がこの世のことで一杯だったからである。

 

あの者をこのまま放っておけば、すべての人があの者を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうだろう。」(48)

 

肉が騒ぐとき人はその賢さによって憶測を呼び、恐れに引き回されて真実を見失う。そのとき神を恐れることを忘れて人を恐れているのである。

 

しかし、彼らのうちの一人で、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは何も分かっていない。
一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」(49~50)

 

イエスの死は救いのための神の愛に拠る計画であり、滅びの死を打ち破って勝利された御名があがめられるためである。

 

このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、
また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。(51~52)

 

イエスをキリストとして遣わせてくださり、キリストの十字架はすべての人の罪を処刑して神から受ける罰を終わらせた。この事実を信じてイエスを礼拝する者の罪は、神の御前に完全にあがなわれており、信仰によって義とされ聖とされた者は、その瞬間から神に受け入れられて「アバ・父」と呼ぶ関係をたまわる。死を経た後は神と共に在る永遠のいのちを楽しむ者である。

キリストを信じる者は、イスラエル人も異邦人も一つの御霊に結ばれて、神の栄光を現わすために生きる神の子となる。

 

此処でユダヤ人が、カヤパの預言によってイエスをキリストと悟ったのではなかった。預言が成就するために殺すのなら激しく打つ鞭は不要であり、茨の冠も罵りの言葉も唾の侮辱も無かったであろう。

 

その日以来、彼らはイエスを殺そうと企んだ。
そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをせず、そこから荒野に近い地方に去って、エフライムという町に入り、弟子たちとともにそこに滞在された。(53~54)

 

 この箇所で私はこれまでの思い違いに気付いた。預言を聞いたことで最悪が避けられるのでなければ、預言の意味は無いと思っていたからである。しかし、預言は警告であるが、聞いたことによって結果を変えるものではなかった。

 

ただ、そういう意味でニネベでのヨナの預言が即座に救いの実を結んだことは、どれほどに素晴らしいことかと改めて思った。
ヨナの働きの素晴らしさでもないことは一読で分かる。救いには神と人のとても不思議なストーリィが秘められているようだ。

 

 ずいぶん昔になるが、教会に将来起こる事を示されて二度語ったことがある。礼拝後の講壇に登って、分裂が起こることを口から出る言葉のままに語った。

その時一人の姉妹が「ゆえ無く訴えられています」と叫ばれて私は非常に驚いた。彼女が関わることとは知らなかったから。彼女の叫び声に私は自分が何をしているのかと後悔した。教会をリードしておられる彼女を尊敬しており、それまで順風満帆で豊かな教会だったからである。


私は自分の口から出た言葉を恐れてその一週間を泣き暮らした。この経験で大学生だった息子に信仰による痛みを経験させてしまった。彼は教会に通うようになり私の失敗を償うように奉仕をした。

 

それからしばらくして駐車場を購入する決議後に「まだ、みことばがありません」と牧師に伝えた。
「皆で決定したことですから協力してください」と言われた時、これで私の役割は終わったことを知って、言われたとおり献金の協力をした。

この時は自分の成すべきことをはっきりと知らされて、主に従順したのだった。それからしばらくして教会は突然分裂し、数年後に駐車場は損害を出して売却された。

 

私はこの経験から、預言することは二度と厭ですと祈った。神は断る者に賜物を押し付けることはなさらない。ただ、

愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。(Ⅰコリント14:1)このみことばを読むたび心が刺された。今回、預言しないのは愛の無いことだと知った。

 

預言はその結果も神の許されたことであり、初めから終わりまでを知っておられることを示している。その神を恐れて、すべてのことにみことばに聴くことを学ぶためであり、また、神がご存じでないことは起こらないことを覚えるためであった。

 

私の間違いは人間中心に考えていたことであった。主はご自身を世の出来事の中にも関わっておられ、神のご計画は最悪と見えることのうちにも前進して行く。

 

預言が事実となり痛みを負って恥を掻き、損失を被るのは教会の頭である主であった。その時に「知っていたよ。わたしはあなたを愛している。何処から間違えたかを学んで立ち上がりなさい。わたしは永久まで共にいるから」と、すべてが起こった時に赦すためであった。

 

イスラエルと異邦人の救い主イエス・キリストを、十字架にたまわった神はひとり子イエスを失われたのではなく、イエスの復活を信じる者を永遠の御許に取り戻された。

罪の呪いの死を打ち破って天と地に神の栄光を現されるのである。神が造られた人のゴールは地にあるのではない。

 

イスラエルの失敗も、異邦人の失敗も、人の不信仰と愚かさの初めから終わりまでご存じの、生ける神を示しているのが預言である。


預言のゴールは主のみこころが現されることであり、神の永遠の愛を知るためである。預言を語ることを拒むことは、人のすべてを越えて在る神のご計画を知らせないことであり、言葉の先に備えられたキリストの平安を伝えないことであった。

 

私は「主のことばを宣べ伝えまい。もう、主の名で語るまい」と思いましたが、
主のみことばは私のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、
私は内にしまっておくのに疲れて耐えられません。(エレミヤ20:9)


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