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ある小児外科医のプロフェッショナルとしての真摯な姿を見た。困難な手術を丁寧な準備によって行い、幼子の命を救っておられた。
子供たちが普通に生きられるようにと医療の限界に厳しく対峙しつつ、自分のことを臆病だと話された。それは命の価値に対する恐れだろう。
イエスさまが与えようとしておられる命は、永遠のいのちである。永遠から見ればその小児科医が繋ぐ命は限りあるものである。
キリスト者が委ねられているいのちはその比ではない。私はテレビを消した薄暗い部屋で深く心を揺さぶられていた。
パウロの苦しみは、キリストのからだが建て上げられるためであった。
私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。(ガラテヤ4:19)
キリスト者の苦しみは個人的なものではなく、キリストのからだに対するものである。
なぜなら、個人の必要は主がすべて備えてくださっているからである。
しかし、個々の信仰はそれぞれが選び取る必要があるのだ。主はその選びを重んじて任せられる。
そこにキリスト者の忍耐が求められるのである。
信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。
その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。(ヤコブ1:3~4)
パウロが切望したキリストのからだなる教会は、私たちの待ち望むものでもある。
ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。(エペソ4:13)
思い巡らせつつ・・温かい床に潜り込んだとき「私には何も良いものはありません。でも、私のうちに居てくださるキリストがすべての良きものを持っていてくださいます。成し遂げさせる力も持っておられます。だから必ずそのことをさせてくださるでしょう。」
つぶやきのような祈りに安息を頂いて眠った。
あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。(ピリピ1:6)