太宰府駅で西鉄に乗って「西鉄博多駅」にやってきた。
地図を見ると「あの場所」は、駅のすぐそばにあるはず。
だが、初めての場所ゆえ、念のために駅員に聞いてみた。
知る人ぞ知るカルトな場所かもしれないので、若い駅員は知らないかもしれない・・とは思ったが、この際ダメ元で。
「すいません、ライブ喫茶・照和は、どこにあるか分かりますか?」
すると、若い駅員はすらすらと答えてくれた。
やはり、改札を出てすぐだ。若い駅員も知ってるんだね。それだけ、その店目当てに来る人は多いのだろう。
↑西鉄福岡(天神)駅。この駅のすぐそばに、その聖地はあるという。
・・・そう・・ここまで私の「日本全47都道府県・完泊」の旅の最終目的地がどこなのか、この旅行記でははっきりと固有名詞は出さないできたが、私が選んだ最終ゴール地とは、博多のライブ喫茶「照和」のことだった。
私にとってはこれ以上のゴール地は他に考えられなかった。
70年代フォークソングを愛した私にとって、日本全47都道府県完泊の旅の最終目的地には、これほどふさわしい場所はなかった。
西鉄博多駅の改札を出ると、駅の出口は左右に別れるが、それを左方面を選び、駅の建物を出たらすぐに左に曲がる。そして道なりに進み、また別の道に入り、歩いてると・・・あった!
↑ついにやってきた、この店。ライブ喫茶「照和」。この店の存在を知ってから、実際にここに来るまで、何十年もかかってしまった・・。
↑ここの地下にある店で、今では大御所になったミュージシャンが、若かりし頃にたむろし、腕を磨いていたのだ。そして、全国に羽ばたいていったのだ。
分かりやすかった。駅からは本当にすぐだ。正味1分ぐらいだろうか。
店は地下なのだが、その入り口に書かれた「照和」の文字を見た時、私は感慨深かった。
「ついに・・・来た。ここがあの照和なのだ。」と思い。
はやる心を抑えながら、店に向かう階段を降りる。壁には著名なシンガーソングライターのポスターが貼ってあった。
↑さあ、階段を降りていこう。壁には、この店ゆかりの大物ミュージシャンのポスターなどが貼られていた。
↑1歩1歩、階段を降りる。ドキドキした。壁には、あの人たちのポスターが。
↑この階段を、後に大物ミュージシャンになった人たちも上り下りしたのだ。
↑階段を降り切った突き当り。ここを右に曲がれば、店に入るドアが。
↑フォークのメッカ、音楽喫茶 照和 の看板。
↑ショーウインドウの中にも、あれこれ。
↑このドアを開ければ・・・・・高鳴る心。 店の入り口を前にして、少し私の心は「構えて」いた。
で。・・・ドアを開けた。
すると・・
↑店内は静かだった。椅子、カーテンなどに、少しレトロな雰囲気を感じた。昭和という時代の名残が残っている気がした。
この時は店内は誰もいなかった。客席のテーブルには、お客さんの姿は無かった。
奥の方に向かって「すいません」と声をかけたら、気立てのよさそうな、感じのいいおばちゃん(←失礼)が出てきた。
この店の営業時間は昼の12時から5時までらしい。ライブがある時は夜も営業する・・のだろう。
ライブのない昼間は、普段はこういう感じなのだろうか。
おばちゃんに向かって、この店への長年の思いを語った私。
この店に来たくて、東京から博多に来たようなものです・・などと言いながら。
実際、私にとってはその言葉にウソはなかった。
「店内の写真を撮っていいですか?」と聞いたら、「どうぞ」との答をいただき、パチパチ撮り始めた私。
なんてったって、私の「日本全47都道府県、完泊」の旅の最終目的地がここだったのだ。ある意味、この機会のために「とっておいた」感があった。
今・・この瞬間、目標達成! ゴ~~ル!
↑これがライブ喫茶「照和」のステージだ!。ここに・・あの人も、あの人も・・立っていたのか、、、。
↑客席からステージを見てみた。店は思ったほどには広くなかった。だが、だからこそステージのミュージシャンと、客席の客との距離は近かった。きっと、心も近かったのではないだろうか。
他に客がいなかったため、ほとんど私の貸切のような状態になり、思わず私はステージにも上がらせていただいた。気持ち、恐縮しながら。
ステージの隅には白い鍵盤。ステージ奥にはドラムセット。そして、ギターアンプ類が並んでいた。
そして、壁には・・・たくさんの手書きのメッセージが書かれていた。
皆、この店に来たミュージシャンなのだ。
↑ステージの後ろの壁には多数の手書きメッセージが。この写真の真ん中には武田鉄矢さんのサインが。なんでも、海援隊はトークも「売り」だったようだ。まあ、海援隊は武田さんがいたのだから、分かる気がする。
↑照和が輩出した代表的なミュージシャンのうちの1組、「チューリップ」のサイン。チューリップはここで「魔法の黄色い靴」の練習を重ねていたそうだ。
チューリップは、ここを巣立ち、やがて「心の旅」「青春の影」などの名曲を生み出し、日本のフォーク・ロック界で全国区の大物バンドに成長した。
リーダーの財津さんは、松田聖子さんなどにも多数の曲を提供するほどのソングライターになった。
↑どれが誰のサインやメッセージなのか、あなたは何人わかるだろうか。
↑壁の一画に、さりげなく書かれていた「Sho Hamada」のサイン。これって・・もしや・・浜田省吾さん???違ってたらごめんなさい。
↑斎藤和義さん(?)などのサインも。 この壁には、当時の空気や熱気も染みついているのだろう。もちろん、あまたの音楽も。
そして・・・ステージ上にマイクがセッティングしてあると仮定して、私は無人の客席を前にしてステージの中央に立ってみた。誰もいないのに、緊張感を感じた。身が引き締まる思いがした。
この店を巣立っていったミュージシャンたちは、ステージで店内のこの光景を見ながら皆ライブの腕を磨いていったんだな・・・そう思うと、胸が熱くなった。
↑誰も客がいなかったので、ステージに立たせてもらった(単にあがらせてもらっただけで、歌ったり演奏したわけではないので、念のため)。ステージから見た店内は、こんな感じ。この店で腕を磨いていた「後の大物ミュージシャン」たちは・・・皆この光景を見ながら歌ったり演奏したりしていたのだ。今私は、彼らと同じ光景を見ていることになる。感慨深い・・。スタンディングで演奏する場合は、この角度で店内を見ていたはずだ。
↑ステージですこししゃがませてもらった。「座り」で演奏する場合は、こんな角度で客席を見ていたはずだ。そして、彼らが人気者になるにつれ、客席は埋まり、ミュージシャンの腕や創造性は磨かれ、その夢や野望、熱気で、店内はいっぱいだったのだろう。ただし、イマイチな演奏だと、客の反応は遠慮なく厳しかったともいう。客もまた、出演者を育てていたのだね。
このへんで、なぜ「照和」が私にとって長年気になっていた場所なのか書いておかねばなるまい。
博多・・といえば、著名なミュージシャンを輩出した町として有名。
しかも、後に超大物になったミュージシャンが多数。
それらのミュージシャンは、皆この店で若い頃に腕を磨き、そして世に出ていったのだ。
なんでもこの店では、客も厳しかったらしく、下手な人が出るとブーイングが平気で出たり、ライブの途中で帰られたりもしたらしい。
なにしろこの店で鍛えていた顔ぶれが凄い。この店に出ていたミュージシャンに、どんな人がいたのか、何人かの名前を挙げてみよう。
どれも若き頃の・・
チューリップ。
海援隊。
井上陽水。
甲斐よしひろ。
長淵剛。
陣内孝則。
石橋 凌。
永井龍雲。
THE MODS。
きりがないのでこのへんにしておくが、この他にも多数いる。
更に、ロック畑の人、、、例えば鮎川誠さんなども出演することがあったらしい。
ちなみに、当時この店の近くの喫茶店では、あのタモリさんが雇われ店長をしていたらしく、照和の出演者とも交流があったらしい。まったく、この当時の博多って、とんでもない(笑)。
どうであろうか?
凄すぎて笑ってしまうぐらい・・というか、呆れてしまうぐらいの著名なミュージシャンが若い頃に腕を磨いた店、それがこの「照和」なのだ。
更には、かぐや姫結成前の伊勢正三さんも客として来てたというし、まだ小学生だった藤井フミヤさんはまだ子供だった為に、来たけど入れなかった・・そんな話もある。
本当にこれほどのミュージシャンが来てたの?と、ちょっと信じられないぐらいのメンバーだ。
まるで梁山泊ではないか。もしくは、音楽のトキワ荘(笑)?
でも、事実だったのだ。だからこそ、この店は「音楽の聖地」と呼ばれるようになったのだ。
まさに「伝説の店」と言っても過言ではない。
音楽の聖地・・・と呼ばれる場所は、日本各地にあると思う。
私の住む東京にも、音楽面で「聖地」とされてる場所(店、コンサート会場など)はいくつもある。
東京はそういう場所はいくつもあるので、ある程度バラけている。
だが、この店が輩出した九州のミュージシャンには、後の大物が多い。
だから、一度来てみたかった。どんな店なんだろう、その店の空間をこの目で見たいと、ずっと思っていた。
伝説の店として語り継がれていたから、私の中でイメージが膨らんでいた感もあった。
東京に住んでる私にとっては福岡はそう簡単に行ける場所ではなかったので、なおさら・・であった。
この店に関することは、武田さんをはじめ、色んなミュージシャンがこれまで口にしてきた。
ただでさえ博多出身のミュージシャンには大物が多いのに加え、それらのミュージシャンが若い頃に腕を磨いたというこの店は、世間だけでなく、私の中でも「伝説の存在」になっていった。
だから、私はこの店が長年気になっていたわけだ。
そのたび私は・・「まあ、東京にも聖地と呼ばれてる場所はあるし、東京から遠い場所に住んでる人は、東京の聖地も気になっているんだろう・・」と思うことで、自分を抑えていた。でも、だからといって「照和」への関心がなくなることは・・・私にはなかった。
たとえこの店で「出演」していなかったとしても、この店が気になって「客」として来たミュージシャンは多かった・・・ということは、店の壁に書かれたサインや色紙のメッセージがそれを物語っていると思う。
↑ 店の裏口を出てトイレに向かうスペースで、ミーティングをしていた出演者もいたらしい。
なんでもこの店は閉店の憂き目にあったこともあったようだが、「伝説の聖地」の場所がなくなるのが惜しまれ、復活を果たしてきて、今に至るらしい。
手厳しい客は、手厳しかった分だけ、この店への愛着は強かったのだろう。
だからこそ「この店が存続していることに意味がある」という意見にも繋がってたわけで。
そういう伝説の店だから、客からの要望も強い。この店に合わないような出演者が出ると客から批判もされたようだ。
この店は・・基本的に「生演奏が出来る人」が大事とのこと。
だから、オケを使ってダンスがメイン・・そういう昨今よく見かけるスタイルは、この店には合わない・・と客に判断されることもあるらしい。
個人的には、この店に対するお客さんのそんなこだわりは、ちょっと痛快でもある(笑)。
そういう店もなくちゃね。
私だって、こういう店では生演奏を見たり聴いたりしたいもの。
第一、ダンスがメインになると、メンバーの数によっては、もっと広いステージが必要になるかもしれないし。
ダンスメインの店なら今なら他にあるだろうし、ならば生演奏メインの店だってあってもいいよね。
でも、ダンス全盛の今のご時世、それでやっていけるのかな・・・と、ちょっと心配にもなった私。
だからこそ、こういうお店には健在であってほしいし、頑張っていってほしい。
出演条件は、まずオーディションがあり、なおかつ博多在住であること。博多以外の人は、店のブッキングに応えられる人・・ということだそうな。
例えば長淵さんなどは博多出身じゃなかったが、店のブッキングに応えていたのだろう。
この音楽の聖地の伝説は、様々なミュージシャンにとっても気になる存在だったようで、壁には様々なミュージシャンの色紙も飾られていた。
中にはお笑い芸人や、大物歌謡曲歌手などの名前も。
皆、この店に関心があり、来たのだろう。
↑サイン色紙もたくさん。この店は「聖地」として有名なので、その伝説や噂を聞きつけ、数多くの有名人がこの店を訪ねていた。
↑チューリップのようなミュージシャンだけでなく、お笑い芸人もけっこう来訪していたのがわかる。
壁にあったメッセージやサインで、私が見分けられた人は・・
実際にこの店で鍛えた海援隊やチューリップのサインはもちろん、
知久寿焼さん(元たま)、斎藤和義さん、レミオロメン、島倉千代子さん、ほかほか・・。
皆さん、この店が気になっていたのだね。
あ、・・壁には「Sho Hamada」というサインがあったが、これってもしや浜田省吾さん???
よく探したら長淵さんや陽水さん、甲斐さんなどの名前もあったのかもしれない・・。
島倉千代子さんのメッセージ「どうしても来たかったのです」というコメントは、なんか、可愛かった。
↑島倉千代子さんの直筆色紙。「どうしても来たかったのです」というメッセージが書かれていた。
なんでも、今現在はライブは毎晩やっている・・というわけではないようだ。
たとえ知らないミュージシャンでもいいから、この店で行われるライブを・・見たかったなあ。
伝説の音楽の聖地「照和」のライブを。
↑なんか、店を出るのが名残惜しかった。でも、店の通常の営業は昼の12時から夕方5時までなのだ。
この店の壁は、デビュー前の「後の大物ミュージシャンたち」の若かりし頃のライヴを目撃していたんだね。
↑ライヴが終わって、出演者も客も、どんな思いでこの階段を登って、それぞれの家に帰っていったのだろう・・。
出演者は日によっては手応えを感じた日もあれば、悔しい思いをした日もあったのではないだろうか。
そんな思いを持ちながら、しばしお店の中に佇んでいた私。
店内には、私が入った時は井上陽水さんの曲が何曲も流れていた。例えば「二色の独楽」など。
その後は、チューリップの曲が何曲もかかりはじめた。
きっと、この店ゆかりのミュージシャンの曲が、普段はあれこれ絶えず流れているのだろう。エンドレスで。
感慨深く店内の空気を吸い、店内の様子を眺め、おいしいアイスコーヒーをゆっくり飲んだ後、私は店を出た。
少し後ろ髪をひかれるように。
私の「日本全47都道府県に泊まる旅」のゴールは・・やはりここしかなかった。
というか、ここで良かったと思った。
店を出た私の頭の中には、チューリップや海援隊や陽水さんたちが若い頃に腕を磨いた時代の光景が、幻のように浮かんでいた。
それはゴールの余韻だった。
店を出たら、博多の喧騒が変わらずそこにあった。
↑照和は、こういう雑踏の中にあった。
この日の夕飯は博多名物の屋台で食べる予定だったのだが、屋台が営業を始めるのは18時くらいから。
ということは少し時間が余る。
中州の屋台横丁まで私は歩いていくことにした。
ひとまずバイバイ、心の中で長年気になっていたライブ喫茶「照和」。
やっと来れた。来てよかった。島倉さん同様、私も「どうしても来てみたかった」。
また・・・来たいな。
チューリップにとっては、この店で特訓し、鍛えた成果が、この曲だったのだろう。
↓
https://www.youtube.com/watch?v=DCZirkhYeOc
高校時代、学校をさぼって何度か行きました。
既に井上陽水さんは「氷の世界」で押しも押されぬビッグネームになっており、
海援隊はメジャーデビューした頃で、まだ「母に捧げるバラード」は
リリース前の頃だったでしょうか…チョット記憶が曖昧です。
私が観たのは、永井龍雲さんだったような気がしますが、あまりよく憶えてません。
私自身のフォーク熱も冷めてた頃で、あまり熱心な観客ではなかったのでしょうね。
音楽好きな友人に誘われるまま行ったような気がします(笑)
ただ永井さんがメジャーデビューした時、
ラジオなどで「照和最後の大物」なんて紹介されてたのは記憶にあります。
長渕剛さんが照和のステージに立ったのは1回目の閉店直前だったのかな…。
照和の他にも70年代の天神近辺には小さなライブ喫茶がたくさんありました。
「怒羅夢(どらむ)」、「ぱわぁはうす」、「多摩」など、
中でも「ぱわぁはうす」は照和のフォークに対してロックのぱわぁはうすとして有名でした。
福岡では伝説のバンドとも言われる「サンハウス」もぱわぁはうすの常連でした。
もし博多を再訪されるなら、だんぞうさんにぜひ行っていただきたい場所があります。
その場所は須崎公園。
西鉄の天神駅からだと徒歩で15分位でしょうか。
ここにある小さな野外音楽堂こそ、
照和ができる以前の福岡フォークのひとつの聖地だったと言われています。
チューリップや海援隊なども照和ができるまでここで練習やライブを行っていたそうです。
残念ながら記念碑的なものはないようですが、十分に往時を偲ばせてくれると思いますよ。
高校に入ってから映画にのめりこんでしまった私にとって、
音楽で熱く盛り上がっていた福岡・博多の街をなんだか醒めた目で見ていた自分が、
今更ながらうらめしいというか、もったいない…(笑)
当時のあの店の雰囲気をリアルタイム体験されてたのは、貴重だと思います。
確か、甲斐バンドが出てきた時も、照和の最後の大物と言われてたと思います。
あの店の近くでは、ロック中心の店もあったことは聞いてます。
ただ、照和のほうが賑わってるということで、ロック系の店から照和に遠征(?)して出演したロックミュージシャンもいたらしいですね。
サンハウス、名前は知ってます。確か「有頂天」というアルバムがあったはずです。
須崎公園ですか。
それが照和に繋がったのでしょうね。
博多勢のミュージシャンたちの原点の原点みたいですね。
次回博多にまた行けたら、見ておきたいです。
あの時代の博多のミュージシャンたちを見てただけでも貴重ですよ。
皆、もういい年齢になってるから、なおさら。
『照和』へのご訪問、まさに今回の旅の最終目的地というか、『本番』だったんじゃないかなあ、と拝察いたします。
もっとも、ぼくは、恥ずかしながら『照和』のことは知りませんでした。
フォークソングと言いますと、『東京』『大阪・京都』が、その拠点だと言う先入観もありました。
今回、【照和】のことをお聞きして、ぼくの知識が広がって来た思いがします。
フォークソングは、その時代の青春を生きて来た世代のかたにとっては、外的な生活と内面の思いが1つになって人格の中核的な部分を形成している、、、、
と、いったら大袈裟すぎるかもしれませんが、、、、、。
しかし、忘れがたい思い出であることは、間違いありますまい。
今回のだんぞうさんの旅、充分以上に堪能なさったんではないかと思います。
また、このような企画を楽しみにしております。
◎懐かしき、フォークソングの、うたごえが、
響く夢見し、ライブ喫茶に。 中森綺蘭
たいへん豊かな話題と豊富な趣味を持っておられ、拝見しても飽きることがありません。
私は、特に、だんぞう様の自作の歌が大好きです。
今回の御旅行でも、懐かしいライブ喫茶に行かれ、さぞかし感慨無量だったと拝察いたします。
数々の写真もすてきですね。
中森由璃花(なかもりユリカ)
◎紺碧の、筑紫の里の、海原に、
人魚となりて、吾、泳ぎたし。 ユリカ
ユリカ
照和の訪問は、今回の旅行のメインでした。
雄大な自然風景があるわけではなく、派手なイベントがあるわけでもない、どちらかというと地味なゴールではありました。
むしろ、精神的なものが大事だったんだと思います。
この店の歴史や意義そのものがメインだったような気がします。
関西フォークソングというと岡林信康あたりが有名でしたね。
でも、博多も相当な拠点だったようで、この店が輩出したミュージシャンは、その証明でしょう。
私はロックもフォークも同じくらい大好きでした。
どちらも私の中核を形成してると自分では思ってます。
どちらも愛してます。
だから、例えばロックファンがフォークをバカにしたり、フォークファンがロックを批判するのがイヤでしかたなかったのです。
私が若いころ、そんな風潮があったんですよ、、。
この旅行記、次回が最終回です。
よろしかったら、また見てやって下さると嬉しいです。
はじめまして。
もしや、中森勇斗さんの奥様か、娘さんでしょうか。違ったら、すみません。
そして、過分なお褒めの言葉をありがとうございます。
励みになります。
私の自作の歌を大好きと言っていただき、ほんとに嬉しいです。
これからも、よろしくお願いします。
ファン個々においては、分かりませんが…。
ニューミュージックが登場した頃は、博多・福岡の音楽シーンでも色々とあったようですが…この辺は今も昔も音楽に疎い私には、よく分かりません。
とまれ「日本全47都道府県完泊の旅」本当にお疲れ様でした!
真面目な話、1冊の本にして読みたいですね〜
無数のオリジナル楽曲を誇るアマチュア・ミュージシャンとして、日本列島制覇の旅最終地点「ライヴ喫茶“照和”」は、本当に素晴らしい有終の美を飾りましたね!
中森勇斗さんがおっしゃる通り、だんぞうさんは「人生の旅人」です!
美しい詩的表現に感動しています(笑)
人間は生きている限り、「旅人」であり続けます。
だんぞうさんが、心身共に元気で、愛する人と一緒に、これからも、さらに素晴らしい人生を送りますように、心から祈っております。
那珂川では遊覧船に乗りました。大きな川でした。
博多地区と福岡地区に別れているのは現地で実感しました。
中洲のロック系のミュージシャンは、天神の照和が客が多いのを見込んで、照和でライブやったりすることもあったようですね。
本?
どこかで出版してくれないかなあ(笑)。