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戦国の「いたずら者」前田慶次郎   by 池田公一

2015年01月21日 | レビュー(テレビ、ゲーム、本、映画、その他)

最近このブログに、「前田慶次」の検索ワードで辿り着いて下さる方が多い。

急にどうしたんだろう・・と思っていたら、NHKで、春から前田慶次主役のドラマが放送されることが決まったことが影響しているようだ。

もっとも、そのドラマは、慶次の晩年を中心に描く作品らしいので、巷であふれる「花の慶次」のイメージとは違った前田慶次像になるのだろう。

ただ、なんにせよ、これまで前田慶次主役の映像作品はほぼなかったので、慶次ファンの私としては嬉しい。

なので、今回こんな記事を書いておこう。

 

前田慶次に関する本は、今やたくさんの本が出ている。

あれほど資料の少ない人物にも関わらず、こんなに多数の出版物が出ていて、しかも人気も高い・・・ということは、いかにマンガや小説の前田慶次本の影響が強かったかということの証明でもあるだろう。

前田慶次といえば、本来は、あの前田家の家督相続者であったぐらいの人物なのだから、もっと資料が残されていてもよさそうなものなのに、残されている資料の少なさは、私的には少し不思議であった。

この本を読んで、「なるほど・・・そう考えれば、理由としてありそうな話だ」と思うに至った。

この本とは、「戦国のいたずら者  前田慶次郎」という本。池田公一さんの著書。

 

慶次が没したのには、米沢説と大和説がある。

通常、今の世に流布している慶次に関するイメージや情報としては、漫画や小説に影響された米沢説が多い。

だが、実際にははっきりしていないというのが実情。

この本は、前田家側から見た慶次という視点を重要視して書かれている・・というのが、これまでの慶次本にはあまりお目にかかれなかった視点なので、面白かった。

面白いと思えたのは、納得できる部分も多かったからだ。

 

慶次には妻子があったのだが、これまでの本では慶次は「ゆえあって妻子と別れ」と説明されていた場合が多かった。それを読むたびに「ゆえ・・・ってなんだろう。」と思った。

いくら傾き者の妻子であれ、自分らをもしも捨てて出て行ったのなら、恨んでいたんじゃないか・・などとも私は思った。

だが逆に、前田家を出奔する慶次に、妻子がついていかなかったのだとしたら、妻子は妻子で自分らの生き方を選んだことになる。

 

さすがに、残された妻子が慶次をどう思ったかまでは、この本では書かれていなかった(資料がなさすぎるため)が、実在した慶次の妻子はどんな人だったんだろう・・ぐらいの興味は持っていた。

この本では、慶次の息子や娘のことにも書いてあった。そのへんは、興味津津だった。漫画や小説では、慶次の息子や娘のことについては何も説明されてなかったから。

 

また、前田家にとって慶次はどういう人物であったか・・・ということは、この本を読んで「目からウロコ」状態だった。

加賀の大大名家である前田家にとっては、慶次は問題児だったし、危険分子であった・・・という説には、うなずけるものは多かった。

なにせ、慶次は、何をしでかすか分からない人物。しかも、かつての家督相続の本命だった人物。

そんな人物が傾きまくって、大問題を起こして、その結果前田家が傾くようなことでもあれば・・・そう考えると、確かに問題児であり、危険分子であり、監視の対象でもあったろう。

しかも、問題児であるばかりか、前田家で慶次について語るのは、ある意味タブーみたいなものだった・・というのも、利家と慶次の家督をめぐるいきさつを考えると、合点がいった。

慶次としては、家督相続ができるということで前田家の家督相続者である利久の養子になったのだ。

それが信長の一声で、おじゃんになってしまったのだ。前田家の家督は、長男の利久が継いでいたが、信長は利久を買っておらず、勝手に利家を前田家の家督相続者と決めてしまった。これによって、利久の養子だった慶次の次期家督相続はなくなった。

慶次は、絶望しただろうし、「俺は、何のために滝川家を出て前田家に入ったのだ」と思ったとしてもおかしくない。というか、絶対に思ったはずだ。

いきなり人生設計が根本的に崩壊。今風に言えば「ぐれた」としておかしくない。自暴自棄になってもおかしくない。

元々前田家には利家をはじめ「傾きもの」の要素はあったらしいのだが、なまじ慶次は利家以上にその素養を持っていたもんだから、家督相続がならなかったせいで、かぶきぶりに拍車がかかったのではないか・・私はそう思っている。

さる古い文献に、前田慶次のことを「世をすねて生きた人物」と評されていた。

そりゃあ・・・すねたくもなるでしょうよ。

 

で、この本「戦国のいたずら者、前田慶次郎」。この本では、前田利家と慶次を、前田家の「明」と「暗」として位置付けている。

利家は、その後、大大名として世の中の政治に大きくかかわるほどの人物となった。

一方、慶次は、やがて前田家を出奔し、上杉家に「傭兵」のような存在として仕えたが、前田家の家督をめぐる存在としては、社会的な成功者として明の利家と、暗の慶次・・という捉え方は、確かにその通りであろう。

利家にとっては、いくら信長の命があったからとはいえ、長兄の利久から家督を奪ってしまう形になった。そして、利久の養子であった慶次は、やがて前田家を離れ、奇行をくりかえす「傾き者」としてなってしまったことを考えれば、前田家で慶次のことが「タブー」扱いされたのも無理は無い。

だからこそ、慶次に関する記述を前田家が意図的に避けたがゆえに、慶次に関する資料が異様に少ないというのは一理ある。

傾き者は「いたずら者」とも呼ばれ、当時あちこちに存在した。

傾き者は、今の呼び方をすれば「不良」であったのかもしれない。実際、あちこちの傾き者は、色々な問題や狼藉事件を起こしていたらしい。厳罰の対象になった傾き者も多かったようだ。

名門前田家としては、慶次は傾き者である危険分子とみなし、米沢ではなく大和に晩年蟄居させて監視したのではないか・・という見方を、この本はしている。

どこまで信憑性があるか分からないが、大和で蟄居している慶次を監視していた人物が、密かに残した「慶次の臨終」の描写があり、それもこの本では紹介されている。

 

 話は飛ぶが、前田慶次には正式な資料は少なくても、断片的な「傾き者としての逸話」はいくつも残されている。

その逸話の中で最も有名なのは、天下人になった太閤秀吉に前田慶次が呼び出された逸話であろう。

有名な傾き者としての前田慶次の評判を耳にした秀吉が慶次に興味を持ち、慶次を自分の前に呼び出し、その傾きぶりを披露させた逸話だ。

慶次のふるまいや、秀吉の感じ方次第によっては、慶次の首が飛びかねないシチュエーションだ。なにせ秀吉は天下人だから。

この時、慶次は、まげを横に結い、なおかつ異様なファッションで現れた・・・というのはよく知られているし、慶次ファンの方は多くの方がこの逸話をご存知であろう。

この時・・この現場には・・・・私が思うに・・・・前田利家もいたのではないだろうか。

利家は秀吉の側近であり、なおかつ若い頃から互いに信長に仕え、苦楽を共にしてきた友である。

秀吉が利家と仲が良かったというのは、話には聞いていたが、私がそれを実感したのは、私が安土城跡に行った時だ。

安土城は山の上にあり、城までは長い石段を上っていくことになるのだが、その石段の入り口付近には、石段を挟んで向かいあう邸宅跡があった。つまり、安土城を、入口付近で守っている位置の邸宅跡である。

で、そのふたつの邸宅跡が誰の邸宅跡であったかというと・・・・秀吉と利家であった!!

秀吉の邸宅と、利家の邸宅が、石段を挟んで向かいあって、共に安土城の入口を守っていたのだ。

安土城では、秀吉と利家は「お向いさん」同士だったのだ。

しかも、その石段は、幅数メートルしかなかった。

仲が悪い者同士を、こういう配置にはしないのではないか。また、お向さん同士ゆえに、行き来も頻繁だったろう。色んな話も互いにしたであろう。昔話もしただろう。

だから・・・秀吉が、前田慶次のことを知らなかった・・というのは、あり得ないと私は思うのだ。

かなり古い時期より秀吉は慶次の存在を知っていたはずだ。

例え利家が直接には慶次のことを秀吉には言わなかったとしても、利家が家督を継いだいきさつを、秀吉が知らなかったとは、どうしても思えない。ましてや秀吉は「人たらし」の異名を持つほど、人の心をつかむのがうまい。だから、慶次の情報を秀吉に教えた人物だっていたと思う。

へたしたら、秀吉は、慶次の姿を見たことだってあったかもしれない。そう、この日「天下人秀吉の前に慶次が呼ばれた日」以前に。

だとしたら、秀吉は、目の前に現れた前田慶次が、自分の友であり側近でもある前田利家の前田家の人物であることを分かっていたはずだし、しかも慶次がかつて前田家の家督相続最有力人物であったことも知っていたはずだ。

この時・・・前田利家としては、目の前に現れた慶次が秀吉の前で何をやらかすか、ヒヤヒヤしていたのではないか。慶次のふるまいや、それに対する秀吉の対応次第では、へたしたら前田家そのものの存続や威光を崩壊させかねない。

だがまあ、慶次のふるまいは秀吉を満足させ、しまいには、秀吉は慶次にこれからも思いのままに傾くことを許した。

この瞬間、慶次は天下人に認められた傾き者になったのだ。

 

私が思うに、秀吉は、いくら慶次が前田家の問題児であったとしても、前田家の人間であることは確かだから、より寛大な態度をとった部分はあるのではないか。

もし慶次の首をはねてしまったら、秀吉と前田家の関係にも少しぎくしゃくしたものが出来てしまったかもしれない。秀吉としては、それは避けたいだろう。逆に、慶次を認めることで秀吉は前田家に感謝されるであろう。秀吉としては、ある意味、前田家に恩を売れることにもなる。

秀吉としては、その後も前田家には自分のために働いてもらわねばならぬはずだ。

 

また・・・本来家督を継げるはずだった慶次の身の上を秀吉が知っていたとしたら、そこも「傾き御免」として「認めて」あげた理由の一つにあったかもしれない。傾くことが、家督を相続できなかった慶次のアイデンティティだったであろうし。

「よくぞ、意地を貫き通した。天下人の前でそんな傾いたふるまいをするということは、命をかけて傾いているということだ」と思って、慶次の資質を気にいったのであろう。

それに・・・天下人の前で臆することなく意地を貫き通し傾いてみせた男を許すことで、秀吉は天下人としての度量を示すことにもなる。

そして・・・秀吉の対応に対して、普段傾きまくっている慶次は、最後にはちゃんとした礼儀作法にのっとったふるまいもしている。そこもまた天下人の心をくすぐっただろう。秀吉も満足したであろう。そのへんは、前田慶次もさるものなのだ。

こんな様々な要素があって、前田慶次は秀吉から、「天下御免の傾き者」として認められたのではないか。

 

 私はたまに考えるのだ。もしも慶次が前田家の家督を継いでいたら、どうだったであろうかと。

利家だって若い頃は傾いていた。それが大大名になるにつれ傾きぶりは影をひそめ、常識のある殿様になっていった。慶次だって心の中では大志を抱いていたことは、少ない資料に記されている。なので、慶次が前田家の家督を継いでいたら、あんなには生涯傾き通すことはできなかったかもしれない。利家のように、秀吉の側近になって、大部隊を指揮していたかもしれない。

慶次が大部隊を指揮する姿も・・・見てみたかった気はする。

慶次の武芸の凄さは、様々な文献に残されている。並はずれた猛将であったことは間違いない。

また、その教養の高さは、かつて家督相続のために利久から教育を受けたからではないのか。

そう考えると、慶次が礼儀作法もちゃんと心得ていたことも説明がつく。

 

家督を継げなかったのは、慶次本人のせいではない。

考えてみれば、悲運の男なのだ。悔しかっただろう。無念だったろう。大きな挫折を味わい、人生設計を狂わされた男だ。

だが、その悲運のせいで、 本来自分が持ってた傾き者としての資質を自由に発揮することもできた。

名門前田家の人間であることで、様々な文化人とも交流できた。

おそらく家督相続のために受けた教育で、その教養を活かして直江兼続のような学者肌の人物とも友になれた。

 

そして、今。平成。慶次が生きた時代から数百年の未来。

歴史の中に埋もれてもおかしくなかった前田慶次は、今や現代において・・・

マンガや小説のかっこいい主人公になり。

ゲームでは、ゲーム中トップクラスの武勇値を設定され。

教養人として、ハンサムな漢として、超人的な強さの「いくさ人」として、幅広い世代から絶大な人気を誇っている。

それもこれも、圧倒的な強さに裏打ちされた傾き者としての、人を食った生き方が、愛されているのだ。

おそらく、慶次本人は、自分の死後数百年の未来に、こんなにカッコよく描かれ、大人気となるなんて・・・予想すらしてなかっただろう。

 

 

前田慶次さん。

あなたが生前味わった挫折や悲運は・・・・数百年後の未来において・・・報われるのです!

今や、歴史上の有名人と肩を並べる大人気人物として。

 

 

この本を読んで・・・そんな気にさせられた。


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