湯の澤鉱泉に泊まった翌日、私は水戸で彰考館徳川博物館に足をのばしてみた。
東京に帰る電車に乗るには、少し時間があったから。
とはいえ、そんなに時間的余裕があったわけでもないので、水戸駅前からタクシーを利用。
10分くらいで着いた。
館内の展示物は、水戸黄門をはじめ、徳川家ゆかりの展示物や、資料がいっぱい。
特に目玉は、あの水戸黄門が使っていた「本物の印籠」だったかもしれない。
本物は、ドラマで使われている「水戸黄門の印籠」よりも多少小さい。
なんでも、水戸黄門の印籠のレプリカをドラマで使うにあたって、カメラ写りなどを考慮して、ドラマで使うレプリカは本物よりも多少大き目に作ってあるらしい。
ご存知の方は多いとは思うが、本物の水戸黄門は、ドラマのような全国漫遊をしたわけではない。
せいぜい、水戸と江戸を行ったり来たりしたぐらいではないか。
また、助さん・格さんにしろ、そのモデルになった人物は実際には武士だったわけではなく、学者であったそうな。
それでも黄門さんは、助さん・格さんのモデルになった人物を含め、家臣を日本全国に調査のために派遣していたらしい。
それは、黄門さんが編纂していた「大日本史」の資料にするためだ。
なので、黄門さま自身は全国漫遊しなくても、黄門さんの事業のために家臣は全国漫遊していた・・と言えるのかもしれない。
となると、ドラマ「水戸黄門」は、ある程度は事実を活かされている・・・という風に捉えた方が楽しい。
江戸をはじめ房総や鎌倉ぐらいまでは実際に旅したことがあるらしいし。
そういえば、晩年、黄門さんが旅先から水戸に帰る途中に、ある農家の近くにあった米俵に座ってしまった時、その農家のおばちゃんからきつく怒られた・・なんていう、微笑ましく愛すべき実話があるそうな。
もちろん、そのおばちゃんは、相手がまさか水戸黄門こと水戸光圀公だとは知らなかったからこそ・・の逸話であろう。
きっと・・・「おお、こりゃスマンのう」とか言って、おばちゃんの言うことをきいたのではないかなあ。
なんとも庶民的な逸話がこうして残されているところをみると、やはり黄門さんはドラマ同様に人望のある人物だったのだろう。
だからこそ、死後に
「天が下 二つの宝 つき果てぬ 佐渡の金山 水戸の黄門」
という言葉が残されたのであろう。
最高の褒め言葉ではないか。
↑博物館の建物自体は、御覧の通り、透明感があって明るい。
↑徳川博物館の建物、遠景。建物は、広い敷地の中にある。
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