子供の頃、家の近くにあった火葬場のわきの道を通る時、妙に胸騒ぎがした・・というか、正直、怖かった。
火葬場は広かった。また、長い塀で囲われていた。
コンクリートの塀だった。
怖かった・・とは言っても、火葬場の表口はまだよかった。
表口は、それなりに交通量のある道路に面していたし、大きな入り口もあり、人や車の姿もそれなりに見かけたからだ。
でも、火葬場の横の道や、裏手の道は、道路の幅が狭く、また人通りも少なかった。
静かだったのだ。
道沿いには古い民家がけっこうあり、どれも建物は低かった。
だからこそ、そんな環境にあった火葬場の存在は目立ったし、その存在感たるや妙に不気味に思えた。
塀に囲まれた火葬場のわきの、人通りの少ない小道を歩きながら、塀の向こうに「死後の世界」みたいなものがあるような気がした。
好んでそんな道は通りたくないが、それでも、ルート的にその道を通らざるをえない時もあった。
そんな時・・・
火葬場には、高い煙突があった。
時々、その煙突から空に向かって煙が出てる時があった。
そんな煙を見た時は、特に怖かった。
ああ・・今、人が焼かれているのかな・・と思うと。
あの煙は、死後の人間が形を変えたもの・・・あれも人間なのだ・・・死後の人間の姿なのだ・・・そんな風に思ってチラッと見た。
いつまでも凝視はしなかった。
煙を見ると、一瞬見た後、すぐに目をそらしていたような気がする。
ずっと見てるのが怖かった。
そして・・・いつか自分も死んだら、ああいう風に煙になって、空に消えてゆくのだろうな・・・と思うと、怖いやら、寂しいやら、空しいやら、色んな感情が心に去来した。
幼心に、「死」というものをリアルに感じたのだ。
普段・・・特に子供にとっては、「死」というのはイマイチ現実感は感じてなかった。
あまり「死」について考えなかったし、自分の死というものはピンと来なかった。
それが・・火葬場の煙を見てると、妙に「死」というものが現実感を伴って、「そこにある」ような気がした。
昼間、火葬場の煙突から煙が立ち上っていくのを見てしまうと、その日の夕方や夜は、火葬場のわきの道を通るのは怖くてしかたなかった。
前述の通り、火葬場の横手や裏手の道は人通りが少なく、寂しい道だったし、ましてや狭い道だったので、なおさらだった。
私に初めて「死」というものの存在を身近に感じさせた、火葬場の煙突から天に上り、空に消えてゆく煙。
人は、死後は、煙になって、空気に、空に、風にまぎれていくのだ。
子供時代が過ぎても、それを見ると感じる、人の命の儚さ、空しさ、死の怖さ、そして無常感。
そう、なんといっても「無常感」。その感じ方は、今も変わらない。
それを思うと、なんとも重たい気持ちに・・・なる。
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