幼いころ、自分自身のことを「私は天才だ」と思ったことがある人は多いのではないだろうか。
そう、根拠も無いまま(笑)。 でも、だからこそ、何かを始められた。
とりあえず「自分には才能がある」・・と思わなきゃ、表現という趣味は始められなかったと思うし。
でも、だんだん続けていくうちに、自分の相場、まわりの相場なども分かってくる。
現実が見えてくる。すると、自分には才能なんてなかったのだ・・と思ったりもする。
天才になりたかったし、才能はあると自分では信じてた、でも現実の自分の発想に、足下が崩れてゆくような気分になったことは、数知れない。
そうなると、あとは・・「自分は天才ではなさそうだ、でも「好き」だから続ける」・・・それだけだ。
だからこそ、私自身が認める「天才」という基準は厳しい。よほどじゃないと、誰かを本当に天才とは思わない。
だから、天才ってのは、めったにいない。そこそこの才能なら、よく感じるけどね。
そのかわり、本当に「天才」と思える人物が現れた時は、すごく素直にファンになれると思う。本音を言えば、多少の(?)嫉妬も感じながら(笑)。
ちなみに私が本当に天才と思うのは、例えば現代のミュージシャンでは、ボブ・ディランやマイク・オールドフィールド、ブライアン・ウィルソン、ビートルズ、ジャンゴ・ラインハルトクラス。じゃないと、中々・・(笑)。
だって、彼らはどう考えても、ひらめきの次元が違う感じがするから。
「自分は天才」と公言してる人をたまに見かけるけど、それが冗談ならともかく、本気でそれを言ってるなら、けっこう苦笑してしまうことが大半。
天才ってのは、そうそう安々と現れるもんじゃないよ・・と思いながら。
そう、真の意味での「天才」なんて、そうそう居るもんじゃないと思う。
じゃないと・・・そこそこの才能の持ち主でも「天才」ならば、世の中「天才だらけ」になってしまうヨ。
以前「アーティスト」とか「カリスマ」とかいう言葉が、今イージーに使われてることを疑問視する日記を書いたことがあるが、「天才」にもそれが当てはまると思う。
言葉のバーゲン化は、本当の意味での「言葉」を埋没させてしまう。
そう思えてならない。まあ、こんなの、私の単なる戯言かもしれないけどね。
そんな私にとっては、映画「アマデウス」で描かれたサリエリという人物は、切ない。
私はむしろ、モーツァルトよりも、サリエリの方に感情移入してしまっていたかもしれない。あの人の気持ちは、口惜しいけど理解できる・・そんな感じだ。本当はモーツァルトの方に感情移入したいのに・・・である。
サリエリは、「ある程度の才能」はあった。でも、彼の目の前に現れたモーツァルトの前では・・サリエリは天才じゃなかった。
なまじサリエリには「ある程度の才能」があったばかりに、モーツァルトと自分の差を誰よりも理解できてしまった。
口惜しいことに、モーツァルトの音楽の素晴らしさを誰よりも理解できてしまう・・・。
で、やっかいなことに、モーツァルトの人間性は、サリエリがもっとも忌み嫌い、軽蔑するタイプだった・・という皮肉(実際のサリエリとモーツァルトがどういう人間であったかは、資料に頼るしかないが、映画「アマデウス」では上記のような描かれ方をしていた)。
そこにサリエリの苦悩と悲しさと口惜しさと嫉妬と不運と、ジレンマがあった。屈折した思いも。
世の中、モーツァルトになろうとして、気づけばサリエリだった・・・そんな人が多いのではないだろうか。
いや、サリエリにすらなれない人が大半だろう。
サリエリの名誉のために書いておくと、サリエリの才能も中々のものであったことは確かで、当時、彼はそれなりの名誉や評価も受けていたし、認められてもいたのだ。
もっとも、私はサリエリの曲は知らないので、あまりサリエリについて細かくは書けないんだけど。
ただ・・いかんせん、サリエリの前に現れたモーツァルトがあまりにも・・・真の意味で「天才」だった・・ということだ。
才能。それは公平ではない。
才能。天才と凡才の間には、歴然とした開きがある。
才能。それは時に、曖昧。漠然ともしている。
才能。そこそこの持ち主なら、たくさんいる。だが、天才はそういるもんではない。
才能。それは時に、見果てぬ夢。
才能。それを凌駕する現実もある。
才能。持ち主に不幸をもたらすこともある小悪魔。
才能。時に人間を高慢にする。勘違いももたらす。
才能。「響き」が「最高」と似てる(笑)。「斉藤」にも似てれば「性能」にも似てる。
そんな、めったに現れない「天才」であるが、その言動には脆さもつきまとう。危うさも感じる。
一歩間違えたら・・という危うさである。
普通の常識では思いつかない発想があるから、一般社会のルールや常識に収まりきれない・・というか。
そういう天才と自分を比較してみると、自分との差を大いに感じ、天才の感性に憧れもし、敬服もし、羨ましいと思いもする。
でも・・こうも思いたい。
自分は天才ではなかったし、本当の意味での才能は自分には無いのかもしれない。
でも・・とりあえず「好き」ということは、その対象の良さや楽しさが分かることであると思うし、「好き」であることも一種の才能なのかもしれない・・と思いたい私は、諦めの悪い奴であろうか。
なんにせよ。
好きなことを長く続けていると、色んな挫折に出会うことはある。
長く続ければ続けるほど・・ 才能があるのか無いのかの葛藤の繰り返しだなとつくづく思う。
むしろ、自分に才能なんてあるのだろうか・・と疑問に思うことも多い。
でも、最終的に「好き」でい続けることができれば、それは幸せなことであり、その趣味は自分にとって大事なものであるのは確かだ。
・・そんな気がするんだ。
そう、根拠も無いまま(笑)。 でも、だからこそ、何かを始められた。
とりあえず「自分には才能がある」・・と思わなきゃ、表現という趣味は始められなかったと思うし。
でも、だんだん続けていくうちに、自分の相場、まわりの相場なども分かってくる。
現実が見えてくる。すると、自分には才能なんてなかったのだ・・と思ったりもする。
天才になりたかったし、才能はあると自分では信じてた、でも現実の自分の発想に、足下が崩れてゆくような気分になったことは、数知れない。
そうなると、あとは・・「自分は天才ではなさそうだ、でも「好き」だから続ける」・・・それだけだ。
だからこそ、私自身が認める「天才」という基準は厳しい。よほどじゃないと、誰かを本当に天才とは思わない。
だから、天才ってのは、めったにいない。そこそこの才能なら、よく感じるけどね。
そのかわり、本当に「天才」と思える人物が現れた時は、すごく素直にファンになれると思う。本音を言えば、多少の(?)嫉妬も感じながら(笑)。
ちなみに私が本当に天才と思うのは、例えば現代のミュージシャンでは、ボブ・ディランやマイク・オールドフィールド、ブライアン・ウィルソン、ビートルズ、ジャンゴ・ラインハルトクラス。じゃないと、中々・・(笑)。
だって、彼らはどう考えても、ひらめきの次元が違う感じがするから。
「自分は天才」と公言してる人をたまに見かけるけど、それが冗談ならともかく、本気でそれを言ってるなら、けっこう苦笑してしまうことが大半。
天才ってのは、そうそう安々と現れるもんじゃないよ・・と思いながら。
そう、真の意味での「天才」なんて、そうそう居るもんじゃないと思う。
じゃないと・・・そこそこの才能の持ち主でも「天才」ならば、世の中「天才だらけ」になってしまうヨ。
以前「アーティスト」とか「カリスマ」とかいう言葉が、今イージーに使われてることを疑問視する日記を書いたことがあるが、「天才」にもそれが当てはまると思う。
言葉のバーゲン化は、本当の意味での「言葉」を埋没させてしまう。
そう思えてならない。まあ、こんなの、私の単なる戯言かもしれないけどね。
そんな私にとっては、映画「アマデウス」で描かれたサリエリという人物は、切ない。
私はむしろ、モーツァルトよりも、サリエリの方に感情移入してしまっていたかもしれない。あの人の気持ちは、口惜しいけど理解できる・・そんな感じだ。本当はモーツァルトの方に感情移入したいのに・・・である。
サリエリは、「ある程度の才能」はあった。でも、彼の目の前に現れたモーツァルトの前では・・サリエリは天才じゃなかった。
なまじサリエリには「ある程度の才能」があったばかりに、モーツァルトと自分の差を誰よりも理解できてしまった。
口惜しいことに、モーツァルトの音楽の素晴らしさを誰よりも理解できてしまう・・・。
で、やっかいなことに、モーツァルトの人間性は、サリエリがもっとも忌み嫌い、軽蔑するタイプだった・・という皮肉(実際のサリエリとモーツァルトがどういう人間であったかは、資料に頼るしかないが、映画「アマデウス」では上記のような描かれ方をしていた)。
そこにサリエリの苦悩と悲しさと口惜しさと嫉妬と不運と、ジレンマがあった。屈折した思いも。
世の中、モーツァルトになろうとして、気づけばサリエリだった・・・そんな人が多いのではないだろうか。
いや、サリエリにすらなれない人が大半だろう。
サリエリの名誉のために書いておくと、サリエリの才能も中々のものであったことは確かで、当時、彼はそれなりの名誉や評価も受けていたし、認められてもいたのだ。
もっとも、私はサリエリの曲は知らないので、あまりサリエリについて細かくは書けないんだけど。
ただ・・いかんせん、サリエリの前に現れたモーツァルトがあまりにも・・・真の意味で「天才」だった・・ということだ。
才能。それは公平ではない。
才能。天才と凡才の間には、歴然とした開きがある。
才能。それは時に、曖昧。漠然ともしている。
才能。そこそこの持ち主なら、たくさんいる。だが、天才はそういるもんではない。
才能。それは時に、見果てぬ夢。
才能。それを凌駕する現実もある。
才能。持ち主に不幸をもたらすこともある小悪魔。
才能。時に人間を高慢にする。勘違いももたらす。
才能。「響き」が「最高」と似てる(笑)。「斉藤」にも似てれば「性能」にも似てる。
そんな、めったに現れない「天才」であるが、その言動には脆さもつきまとう。危うさも感じる。
一歩間違えたら・・という危うさである。
普通の常識では思いつかない発想があるから、一般社会のルールや常識に収まりきれない・・というか。
そういう天才と自分を比較してみると、自分との差を大いに感じ、天才の感性に憧れもし、敬服もし、羨ましいと思いもする。
でも・・こうも思いたい。
自分は天才ではなかったし、本当の意味での才能は自分には無いのかもしれない。
でも・・とりあえず「好き」ということは、その対象の良さや楽しさが分かることであると思うし、「好き」であることも一種の才能なのかもしれない・・と思いたい私は、諦めの悪い奴であろうか。
なんにせよ。
好きなことを長く続けていると、色んな挫折に出会うことはある。
長く続ければ続けるほど・・ 才能があるのか無いのかの葛藤の繰り返しだなとつくづく思う。
むしろ、自分に才能なんてあるのだろうか・・と疑問に思うことも多い。
でも、最終的に「好き」でい続けることができれば、それは幸せなことであり、その趣味は自分にとって大事なものであるのは確かだ。
・・そんな気がするんだ。