日記・・・というと、今ではブログなどの記事を指す場合がある。
だが、ネットだのPCだのが普及していなかった頃は、日記といえば手書きで自分用に日記帳に書くものだった。
文具店などでまっさらな日記帳を買ってきて、鉛筆などで手書きで綴っていくものだった。
まあ、今でもそういう日記を書き続けている人もいるとは思う。
日記帳というれっきとしたものでなくても、手帳の中のページを日記みたいに使用している人もいるのではないかとも思う。
私は手帳を日記代わりに使ったことはない。
ならば日記は書いていなかったか?というと、そうでもない。
書いていた時期はあった。
文具店でまっさらでやや分厚い日記帳を買ってきて、毎日のように綴っていた時期はあった。
毎日のようにマメに綴っていたのは、中学・高校時代であった。
なぜ書き始めるようになったか、その理由やきっかけはもう覚えていない。
書き始めたのは確か中学3年の頃から。
中学3年の頃から高校卒業あたりまでの時期が、一番マメに日記を書いていた時期だった。
もっとも、小学校時代にも日記を書いていた時期はあった。だが、それは夏休みの宿題として、夏休み限定で書いていたものだった。
それは夏休みの宿題の一環だったから、夏休みが終わると先生に提出するものであった。
なので、人に見られることが前提になっていたので、さしさわりのないことを書いていたような気がする。
だが、中学3年の頃に書き始めた日記は、自分の意思で書き始めたものだったし、誰かに見せるような代物ではなかった。なので、小学校時代の夏休みの宿題で書いていた日記に比べて、より心に踏み込んだ内容になっていた。
級友のこと、学校のこと、好きな女の子のこと、などなど、けっこう赤裸々な内容もあったはずだ。
毎日マメに書いていたものだから、1冊目の日記帳は高校にあがってほどなくして書き終わってしまった。
日記を書くということが習慣になっていたものだから、空白期間があるのは嫌だったので、1冊目の日記帳が終わる前に、近くの文具店で新たに2冊目の日記帳を買ってきて、1冊目の日記帳が終わった次の日には、すぐに2冊目の日記帳に書き始めた。
2冊目の日記帳は、ページの上部のほうにフリースペースがあり、そこに私は漫画を描くようになった。
漫画というより、落書きみたいなもので、その日の心境を絵にしたりもしていた。
ある意味、ちょっとした絵日記みたいなものだった。
当時私は美術部に入っていたので、絵を描くのは好きだったし。
今思いだしてみれば、この2冊目の日記帳が私の日記ライフ(?)の中で一番充実していたかもしれない。
やがて、私は大学に進んだ。大学に入ってからは、日記はあまり書かなくなっていった。
しまいには全然書かなくなってしまい、私の日記ライフはいつのまにか終わっていった。
なぜだったのだろう。と考えてみたら、原因はすぐに浮かんできた。
中学の頃は、日記の書き始めの時期で、日記を自分のためだけに書くという行為が新鮮だった。
更に高校の頃は、私は郊外に住んでいたので、夜ともなるとあたりは静かで、辺りには田園風景があったので、町とは無縁で、夜遊びで出歩くなんてことはほぼ考えられなかった。まあ、散歩ぐらいはあったけど。
友人も近くには住んでいなかったし、夜遊びできる環境でもなかったので、たまの散歩以外は夜はひたすら家にいた。
また、部屋にはラジオがあり、深夜はほとんど自分の部屋にこもっていたと思う。
なので、日記を書く環境としてはもってこいだった。あたりが静かだったこともあって、けっこう集中して書けていたと思う。
今ふと思ったのだが、もしも高校時代も都心で暮らしてたら、マメには日記は書かなかったかもしれない。近くに友人が住んでたら、夜も友人と出歩いて遊んでたかもしれないから。
そうだと、夜毎日日記を書く時間や習慣などなかったと思う。
日記を書くより、友人と遊ぶほうが楽しかったかもしれないし。
だが、大学に入ると、私は親の都合もあり、再び都心に引っ越してきた。
家の近くには中学時代の友人も多数住んでいたし、夜は大学の仲間と音楽サークルの活動をしたり、飲み歩いたりしていた。で、帰宅するのは夜遅くなることが多くなった。
酒でも飲んでいようものなら、当然酔っていた。
つまり大学時代は夜家で過ごす時間は、高校時代より少なかったのだ。
しかも酔っているともなれば、日記を書くのは面倒になっていったのだ。
やがて、日記を書くという習慣がなくなっていった。
で、そうこうしてるうちに、日記は・・書かなくなっていった・・・というのが、私の日記ライフの流れだ。
中学・高校の頃に書いたアナログの日記帳は押入れかどこかの奥にしまってあるはず。
書いていた当時は、いずれ読み返すことはあるかなと思って書いていたが、今のところその予測は外れてしまっており、当時の日記を読み返すことはない。
でも、読み返してはいないぶんだけ、当時どんな日記を書いていたかという内容の記憶はほとんど私の中で消え失せている。まあ、おぼろげに覚えている部分もあるが、あくまでもそれは断片的な記憶だ。
まあ、学校のこと、友人のこと、親兄弟のこと、音楽のこと、恋愛のことなどが書いてあるとは思うが、読み返すのはなにやら恥ずかしくて(笑)。
誰かに見せる代物ではないし、実際に誰かに見せたことはない。あくまでも、読むとしたら私自身だけだ。
なので、恥ずかしがらなくても良さそうなものなのだが、どうも恥ずかしい。この場合、誰に対して恥ずかしいのかよくわからないのだが(笑)。
もし読み返すことがあるとしたら・・・ヨボヨボの爺さんになってからかもしれない。
これは中学・高校時代の私がどんなことを考えて、どんな生活を送っていたかの記録でもあるんだろうな。
ヨボヨボの爺さんになって読み返すことがあったら、それはちょっとした「個人的なタイムカプセル」のような気もしている。
記憶のタイムカプセルという感じ。
だとしたら、それまではむしろ読まないでいたほうがいいのかもしれない。
とりあえず言えることは、十代の頃に毎日日記を書いていたのは、当時の歌詞作りに少しでも役だったような気もしている。
毎日作文していたようなものだし、文章を書くことにわずかでもトレーニングになったかもしれないし、なにより書くことに違和感や嫌悪感はなかったしね。
そしてそれは、今こうしてブログに文を綴っていることにも多少なりとも繋がっているのかもしれない。
当時日記を書く習慣がなかったら、今こうしてブログは綴っていないかもしれない。
ただひとつ決定的に違うのは、当時書いてたアナログ日記は、誰にも見せない個人的なものであったのに対し、歌詞やこのブログは誰かに読んでいただくことが前提になっていることかな。
困るのは、この十代の頃に書いてたアナログ日記帳が私の死後どうなるかということ。
誰かに読まれたくはない。なので、一緒に燃やしてほしい・・・かもしれない。
なんか、人に読まれたら絶対に困ることでも書いてあったら、困るから。
たかが日記が気になって、安心して成仏できなかったらドナイシヨ(笑)。
あなたは日記は書いてましたか?
あるいは・・今も日記は書いてますか?
書いていたのだとしたら、それが何かの役に立ちましたか?
で・・
若い頃に書いた日記を読み返すことって・・・ありますか?
ここは時の流れの外にある、時間の外です。
ようこそ。
若い頃の日記、全部処分したのですか?!
思いきりましたね。勇気も必要だったのでは?
処分する時、心残りはなかったのでしょうか。
私は若い頃の日記は誰にも読まれたくないくせに、処分は中々できないでいます。
とっておくと、誰かに読まれてしまうリスクがあるにもかかわらず。
まあ、一応、老後の楽しみにとってある感じです。
それにしても、交換日記は若い頃に1度やってみたかったんですよ。
うらやましいです。
妄想で、交換日記をテーマにした自作曲を作ったことがあるだけです…。それだけ憧れがあったのでした。
若い頃の日記…老後に1度読み返したら処分したほうが良さそうですね。やはり。
交換日記とか、交換ノートとか、もしかしたら友人が保管しているかも…ですが😅