私は織田信長さんに怒られたことがある。
それは滋賀県でだ。
滋賀県で・・・というより、ピンポイントに書くと安土城跡でだ。
安土城跡といえば、戦国時代に織田信長の居城「安土城」があった場所として有名。
安土城そのものは本能寺の変の後、なくなってしまい、今では城跡が安土山に残されているだけだ。
だが、安土山にはかつてそこにあった安土城の痕跡は今でも色濃く残されている。
なので、実際の安土城はもう見れなくても、せめて安土城があった場所には行ってみたい・・・そう考える歴史ファンは多い。
私もその中の1人であり、安土城跡に私も行ったというわけだ。
やはり一度は見ておきたいもの。一度は行っておきたいもの。
現地に着き、天守閣方面に向かう石段を登り、やがて本丸跡に到着。
そこからの展望は見事で、かつてそこにあったはずの天守閣の最上階からの眺めは更に見事だったのだろうな・・・と思わされた覚えがある。
その時は琵琶湖はけっこう遠くに見えたのだが、戦国時代には琵琶湖は安土山のふもと近くまであったはず・・・そう思って、戦国時代にここから見えたであろう景色にしばし思いを馳せた。
その後本丸跡を離れ、安土山散策をしていると、なんと織田信長の墓があった。
それは「二の丸跡」であった。
ご存知のように信長は本能寺で亡くなっているが遺体は見つかっていない。
だが、あれほどの大物なので、信長を供養するための墓は、あちこちに存在する。
この安土城跡にある信長の墓もその中のひとつ。
だが、安土城は信長の夢の実現でもあったわけだし、城の壮大さは語り継がれているし、信長の存在の象徴であろう。
そんな安土城跡にある信長の墓は、一番信長らしい場所にある墓かもしれない。
安土城跡を散策してて、信長の墓に出会った時、私は感慨深さと、一種の畏れみたいなものを感じ、妙な緊張感を感じた覚えがある。
畏れながらも、写真を撮りたいと思ってしまった。
心の中で、墓を写真に撮るのはちょっと・・・という気持ちもあったが、それ以上に体のほうが勝手に反応して、気付けばカメラをかまえてしまっていた。
で写真を撮ろうとした。
と、その時!!
カメラが突然下に落ちた。
ちゃんとヒモに結んで首からかけていたにもかかわらず。
カメラの落下先は地面にあった石の上だった。当然固い。
買って間もないカメラではあったが、石の上に落ちた衝撃で、そのカメラは・・・壊れてしまった・・。
おかげで、その旅行では、その後の写真は、その後で街で買った安いインスタントカメラで写真を撮るしかなくなった。
信長の墓の近くには、インスタントカメラを売ってるような店はなかったし、当時はまだ私は携帯を持ってなかったか、あるいは携帯で写真を撮る習慣は自分の中にまだなかった。なので、結局信長の墓に対面したというのに、写真は撮れずじまいだった。
この時・・カメラが壊れたタイミングは、私が信長の墓のまん前に立った瞬間であった。
いきなりカメラが落下して壊れてしまったのは・・・信長に「こら!このうつけめ。わしの墓の写真など撮るでない!」と言われてるような気がした(?)。
要するに・・信長に怒られたとしか思えなかったのだ。
タイミング的に、そうとしか思えなかった。
もしこの時・・・構えたカメラがスマホだったら、そのスマホが落ちて壊れてしまったのではなかったろうか。
もちろん、私の不注意だったことは確かだったのだろうが。
信長さん、たとえ墓の中に遺骨や遺物がなくても、貴方はそれぐらいの力は持っててもおかしくないですよね。
死して数百年が経過しても、私の前では信長さんは、その力は健在だった・・・ということになるのかもしれない。
さすが信長さん。←さっきから馴れ馴れしい・・・。
なお、写真は、安土城の石段。
この風景を、信長も秀吉も利家も勝家も・・・皆が見ていたのであろうし、この石段を登ってもいたのだろう。
それも戦国武将きっての「破壊王」の真前で…。
織田信長と謂えば、あまりにも有名な「鳴かぬなら殺してしまえ ほととぎす」ですからね。
だんぞうさんにも、その短気が祟ったとしか思われません…。
一方、徳川家康や坂本龍馬なら、笑顔で許してくれそうですね(笑)
よりによって、信長の墓の前ですから。
なにか信長の意思もあったように思えたものでした。
信長が気性が激しい人だったようですしね。
ちなみに、真田幸隆や、真田昌幸、真田幸村、武田信玄、上杉謙信の墓や慰霊碑の前で写真を撮った時は、何も起きませんでした。
家康・・・許してくれるかもしれませんが、そのことをずっと覚えていそう(笑)。
龍馬は・・・許してくれそうな気がします。
龍馬の墓の前で写真を撮った人はいっぱいいると思います。